“関わりしろ”を相手に見せる、と11月3日の日記【年内あと59日】
「人に頼る」ということについて最近とてもよく考えます。
それについて、「自分は弱いんじゃないか」と考えたりした時期もありました。
でも、実際に人に頼る部分と、それがうまく作用して物事が良くなるのを見て考え方が変わりました。
自分を“無力化”することではなくて、自分の周囲で”お願いしたいことを整理して相手に見せる”ということなんだな、と今では思っているんです。
『人に恵まれている人』
そういう人たちを見ていると、ある共通点に気がつくんです。
助けてもらうというよりも、周りが手を差し出すタイミングを提供している。
むしろ、能動的に。
そういうことを、意識的にやった方がいいと思うようになりました。
そんな気持ちです、今は。
というのも、ぼくの友人には、「人に頼るのがすごくニガテ」という方が結構います。
もしかすると、妻なんかもそのタイプかも知れません。自分でちゃんとやり切りたい人。
「申し訳ない」とか「自分の責任で」というような気持ちになるのはよくわかる。
ただこれ、前にもnoteで書いたのですが、「人はそもそも人の役に立ちたい」そんな生き物だと思っています。
それを、ちゃんとさせてあげる(ちょっと傲慢に聞こえますが…)というのが、自分としてはすごく意識していることだったりするのです。
この“意識して”という部分がすごく難しくて、スキルを持ち合わせている場合は、なかなかその部分を人に渡すのは面倒だったりします。
手取り足取り説明したり、フォローしたりしないといけない。でも、それがたぶん「自分のやるべきこと」なんですよね、きっと。
ぼくは、自分のできることを完璧に全うすることだけでは、“満足できない”ことがわかってきています。
少なくとも自分は、ですよ。
できることを全うして、それを研鑽していく人はそういう才能があるんだと思っていますし。
ぼくの場合は、周りの人と「関わり合いながら」それをどうやって作るかとか、その場に集まったひとたちがどのような「いい時間」を過ごし「いい空気」を醸成するかにすごく興味があるんです。
そんなことばかりいつも考えている。
これらは自分一人ではもちろん難しいので、必然的に人に頼るようになります。
自分が企画していても、現場ではいろいろとモノや状況は動く。
だからあらかじめ、その人に「関わりしろ」を残して、積極的にそれを見せることにしています。
ここすごく言い方が難しいのですが、それを切り出してその人に「はい!」と差し出すのではなくて、放っておかれているように“ちゃんと”見せてあげること。
そしてそれを自ら気づいて拾ってくれるを辛抱強く待つ、とでも言うのでしょうか。
サッカーで人が集まるところには寄らずに、こぼれてきそうなコースに走ったり、誰もいないスペースを探したりしたい。
サッカーをちゃんとやったことはないけど、観るのは好きです。
僕自身がそうなのですが、仕事を“仕事”として渡された瞬間に、それは“仕事”でしかなくなってしまい、楽しさが半減するんです。
“仕事”なんで、やりますけど、ワタクシゴトにはなり得ない。どうやっても、無理なんです。手渡された時点で。
”メンドクセー奴”です、本当。
逆に、誰も手をつけないような、変な分野のことや、面倒な人とじっくり付き合うみたいなところ、手書きの手紙を書いたり、手作り感を出すこと、考えたり意見をまとめるといったことを“自分で”拾いに行って、それをやることでものすごい達成感(貢献感)を感じるんです。
自分が気づいて、自分の良さを出せることをいつも探している。
実際にそれが評価されるかどうかはあんまり関係ないんですね、この場合は。
まぁ、そもそも人の評価はあんまり気にしてないんです、ぼくは。こういうスタンスで生きていると、見ている人は見ているけど、一般的な物差しでは評価されないし、ぼくもされたくないし。
メンドクセー奴だな、本当。そう思う。
人と協業していく中では、ちょっとしたそれぞれの“満足の感じ方の違い”に目と心を向けていたいなぁっていつも思うんです。
なんか朝から小難しい話をしてしまいました。
人との関わり合いと、その余白や幅ということについて、少しまとめてみました。
実際の具体的な話とか、また着想があったら、今度はマガジンの「珈琲考。」の方に書きたいと思っています。
もしよければ、購読くださいね。個別で読んでいくよりは、更新されるマガジンなので、1,000円で買ってしまったほうが、絶対にお得です。
あまり広がってほしくないような話を不定期で、クローズドでしていきますので。
それでは!
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今日の一曲
ハンバートハンバートっていうアーティストがいるんですが、知ってますか?
ぼくは、地元会津の小さな音楽フェスが去年まで10年くらいあって、たまたま今年は小休止ってことでお休みだったんですが、それで初めて生で聴いて惚れ込んだんです。
夫婦ユニットとか兄弟姉妹ユニットって、ちょっと惹かれますよね。
根本的な呼吸が合っている。
ぼくは元々合唱人なので、歌うのはすごく得意で好きなんですが、妻は元ダンス部員なので踊るのは得意。
この二人の夫婦ユニットだと“アカペラダンスユニット”になってしまいそうなので、ちょっとコンテンポラリーダンスみたいになるので、やめておきます。笑
くだらない話ですいません。
最近出たアルバムから、この曲です。言葉の力を考えるきっかけになりました。
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11月3日(火)
夜中の2時に目覚める。
祝前日ということで、前の日に油断したら22時に寝てしまう。で、夜中に目覚めることはわりとよくある。で、今日は特に頭がすっきりとよく起きれていた。
お風呂に入って、ゆったりと最近ハマっている「ちきりんさんのVoicy」を聴く。やっぱり、この人はすごく賢いな、と思う。
もう一度、著書も読み直してみるか。
読むコンテンツ、聴くコンテンツ、同じ人が出しているものでも、ガラッと印象が変わるの不思議。
自分も“そのうち”音声コンテンツをやってみたい。しゃべるのニガテだから、企画でいいけど。
4時くらいまで、ゆっくりとお風呂にいて、そこからはnoteをひとしきりまとめる。
普段生活している中では、なかなかじっくりと内容を深めることが難しいけど、休みの日を目一杯使って時間をかけて書いておくと、頭がよりすっきりとする感じがある。
今回もそうだった。
やりたいこと、これからのこと、お金を使ったものなどをまとめました。
自分が何にどのように感じて、どんな消費活動をしているのかを知るのはとてもよいこと。
それを棚上げせずに、棚卸ししてあげること。とてもすっきり。
コーヒーを2杯ほど飲む。朝方この時間だとなんの気兼ねもなく飲めてよい。
明るくなり、外の散歩に出る。この流れはもはや自然になっていていいな、と自分でも思う。
いろいろな人の話を聴いていると朝の軽い運動は推奨されていて、自分も自然とやりたいと思うようになったのは、少なからず効果を実感しているからだと思う。
心地よさは、続けられる大事な要素。
妻と娘が買っておいてくれた「カツサンド」を食べて朝ご飯。
妻はこの日、「嵐」の配信日なので友人宅で持ち寄り鑑賞会をする予定があった。
今年で活動休止となる嵐なので、去年からずっとその予定だけは妻優先で何事も対処してきた。
昼から夜遅くまで出かけてきて、どうやらすごく楽しめたよう。
さて、その間、ぼくと娘は二人きりなので、こういう時は基本的に娘はテレビを観るか、ぼくの予定に振り回されるかの二択。
この日は後者。
AppleWatchの新しいものを注文して取りに行く予定だったので、まずは新宿へ。
無事受け取り、その後お昼。
3丁目におもしろい野外のレストランがあって、開放感もあってよいので、そこでお昼をとることにする。
娘が好きなしらす丼と、ぼくはジンギスカン丼。いろんな地域の食材やメニューを揃えたおもしろいダイニングです、ここ。
その後、伊勢丹にメガネの修理を出しに行く。
学生時代、社会人間もない頃など、なんだか緊張しながら歩いた伊勢丹メンズ館を、今は娘とふたり手をつないで歩くのは、なんか不思議。
「こういうのもいいな」と素直に思う。
昔からだけど、「デパート」って存在、わくわくする。
無事、メガネを修理してもらい、最近のフレームはどんなものかと眺める。今手元に3本くらい使ってないものがあって、処分するなり、いいフレームのものはレンズを差し替えて使いたいなと思う。
今度、まとめて持ってこようと思う。
18時過ぎに帰宅して、娘はテレビを観て、ぼくは少し横になる。タイマーをかけて30分だけ昼寝をするね、と寝入ったら20時くらいになっていてびっくりする。
娘はずっとテレビを観ていたようで、「没頭」ってすごいなぁと感心する。
起きて、あるものをありあわせの夕飯を作る。
さつまいもの味噌汁と、鶏肉と水菜としめじを卵とじして、前の晩の作り置きの厚揚げに合わせる。なかなかの料理上手で、天才。
その後は、お風呂に入りきゃっきゃとはしゃぎながら、寝る支度をして娘を先に寝かせる。先日買った、「Standart」というコーヒーの雑誌を読む。
この雑誌、すごく読み応えがあっていいので、定期購読しようかと思っている。
その後、妻が帰宅して、少しお話をしたあと、眠くなってきたのでぼくも寝ることにする。
いい祝日で、いい時間!