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そう感じたいとき、そう感じられるものを人は探している
怒りの中には「寂しさ」があったりするし、表出する感情の奥底には「根源的な想い」があるものです。
いや、なんでいきなりそんなことを言うかというと、たいしたことではないんです。
今日、映画を見てきたんです。
ぼくは、一年間で“何回映画館に行ったか?”を自分の生活の豊かさの指標にしているんですね。
「文化的教養が~」とか「エンタメのトレンドが~」とかいう話では全然なくて、純粋に「そういう時間」を、生活の中に確保したいと思っているからなんです。
noteでも何度か書いてきました。
「映画を観る」っていう行為は、一日の生活時間の「ある程度」を割かないと難しいんです。
家で、DVDとかNetflixで観るのとは質的な意味で相当違うと思っています。優劣をつける話ではなくて、あくまで「別のもの」という意味です。そもそも家で中〜長時間の映像を観ることができないんですよね。
今日だって、朝起きて散歩して、コーヒーとパンで朝食を済ませたあと、ふと「映画何やってるんだろう?」とサイトをチェックしたのが10時過ぎ。
今日はすでに13時半からオンラインでのミーティングの予定が一件あって、その時点で観られる映画が一つしかなかったんです。
「ミナリ」という映画です。
「A24」という「ミッドサマー」や「WAVES」といった作品を送り出してきた、新進気鋭のスタジオですね。
で、その映画自体をどうしても観たいというわけでもなかったけれど、「その時間で映画館で映画を観る」とするとそこに行くしかなかったんです。
結果的に観ておもしろかったから良かったわけですが、これであんまりおもしろくなかったら、生活での落胆ぶりは相当なものですよね。
まぁ、本数観てるとそういうこともよくありますけどね。
映画館に行くと、決まって観たい作品が数本増えて持ち帰ってくることになります。
予告編を観ないわけにはいかないじゃないですか。あの数分がぼくの人生で一番真剣に広告や番宣と向き合う時間だと思っています。
で、その数十秒~数分の映画の予告を観ていると、流れていく断片的な映像や音楽の感じで、ある程度自分の中で作品全体のイメージを作り上げている感じがするんですね。
実際は全く違う作品のこともよくありますけど。
映画館にいって、スクリーンと対峙して、流れるコンテンツに心動かしている時というのは、ぼくは生活の中では「贅沢な時間の浪費」をしている時だなぁって思うんです。
さらに、そういう時に“自分のコンディション”がわかるということもよくあります。
そのときに「観たいなぁ」って思った映画とかグッとくるシーンというのは、自分の中で欲している「感情」であることが多い。
「泣ける映画」が観たいとかよく言いますよね。そういうものに近い。
それで言うと今の自分には「ミナリ」の内容がどんぴしゃでハマっていた気がします。
自分のやりたいことを追いかけて、家族を振り回していく父親の話。内容は観てからはじめて知ったんですけどね。笑
さすがに、「そういう感情になりたい」というわけではなかったけれど、そういう作品に触れて、自分の生活やこれからの変化を想起させるという体験自体は新鮮なものでした。
ぼくがやりたいとおもっていることや、こうありたいと欲するもの、住んでコミットしたい場所や土地に対しての家族はどう思っているのかということ。
反対はされていないんですけどね、住んだことのない土地なので、変化は結構大きいと思うのです。
映画自体の狙う方向性とは若干違う感想ではあると思うけれど、ぼくの場合は今、そこなんだな、と思ったり。
映画を映画館で2時間くらい(勝手に)集中して観るという体験は、やっぱり今の時代でもお金を払う価値があるんだな、と思っています。
まもなく3月も終わり。
今年は今のところ「まだ、3本目」なので、もう少しこういう時間を多めに生活の中に組み込んでいきたいな、と思うのでありました。
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