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『やさしさ』についてのアンサー。
家入さんのイエイリノートを読んで、ふと考えた。やさしさのこと。夜なので、手短かに。
僕が他者と接する時、基本的なスタンスは「人と人は分かり合えない」という前提に立ちます。たとえ親子でもね。「分かり合える」と言う幻想にしがみつくから、友人や恋人と「分かり合えない」と感じた瞬間に、絶望してしまう。
人と人は、分かり合えないという、前提に立つこと自体、ぼくなんかは抵抗があったりする。ただ、最近は社会人として、家族を持った1人の人として、このことはなんとなくわかりかけてきていた。同じ会社の中、屋根の下であっても他人なのだ。たとえ夫婦や、血のつながった親子だとしても、人間としては別の生き物なのだ。まったく同じことを考える方が不自然なのだと。
でも、ぼくは人を信じたい、分かり合えると思いたいという気持ちも、どこかに潜んでいてたまにひょっこりと、顔を出したりする。それが苦しい。
やさしさの見返りのこと。
「分かり合える」と幻想を持つことは、ある意味、他者との関係の中で見返りを求めているようにも見えます。「私はあなたを愛してる」という言葉の裏に(だから、あなたも私を愛してね)といった気持ちが見え隠れするように。
これを読んで、ぼくは糸井さんの本『小さいことばを歌う場所』の一節を思い出した。
ページの端を折っているからすぐに引用もできた。
「愛してるのに、愛してくれない」と考えがちな人は、基本的にまちがっている。つまり、その人は、「愛する」ことはもともと難しいものだ、と、知らないのだろう。
というものだ。
この本はぼくは音声でも聴き返していて、本当に好きな一冊でもあるけど、このことを家入さんもことばをかえて言っている気がした。
刀を持っている相手に、じぶんの首を差し出すような状況に似ている。見返りを求めない、つまりは相手次第だということ。
じぶんにとっての 『やさしさ』って何だろうか?
改めて天井を見上げて、「やさしさかぁ」と呟いてしまった。
ぼくは基本的争いごとが好きではなくて、ことを荒立てることが嫌いだ。平和主義ともまた違うような気がする。でも、それを『やさしさ』とは呼べないだろう。本当なら言い争って、白黒をはっきりとしないといけない場面もぼくはもしかしたら一歩引いてしまうのかもしれないから。
そう考えると、『やさしさ』って、物事や人に対する『真摯な姿勢』なのかも知れないなと思った。
本当にその状況が悪くなって取り返しのつかないことになる前に、じぶんが為すべきことをし、言うべきことを言う。その人の未来がたいへんなことになりそうだったら、身を挺してでも方向転換を促す。それらはすべて『じぶんの利益や都合』を考えてはできないもの。
混沌とした場を丸く収めるのでもなく、ただただ喧嘩をするわけでもない、『物事や相手の行く末をただ想って、真摯に行動できる姿勢』
ぼくの考える『やさしさ』とは、こんな態度だ。
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