とある新陳代謝の記録
──空き地ですがなにか?
意地汚く命にすがるのは魂への冒涜だ、みたいな考え方をしている。当事者はそう思っているが手仕舞いの仕方がわからず途方に暮れたのか。限界まで生き抜くという意志のもと座り込んでいたのか。それはわからない。とにかくコンクリートジャングルの一角にそれはあった。
──そこに何があったかわかりますか?
と聞かれても、わからないのが世の無情。むしろ、「なぜここに空き地が残されているのか」の方がおかしいとさえ言える。上掲写真を俯瞰視点で見ると次のようになっている。
いやマンションもなぜか出っ張っているところはあるのだが、それにしてもおかしすぎる。この空き地が邪魔で、歩道を広くした意味がない。はじめから広く取っておけばよいのである。でもそうはならなかった。そうはならなかったんだよ、この空き地は。
──なぜならここには一軒のあばら家があったのです。
毎日ではないが時折通過するこの道で、「邪魔だなあ」と思っていたから知っている。邪魔だけどここには人の気配がする。夜には明かりがついていた。周囲の建物とまるで適合しない古めかしいトタン、青い外壁。遡ること2世代分の歴史のギャップを感じさせる風合い。足掛け二年はその存在を認めていた。それがこのたび、消え失せた。
──これが新陳代謝ということです。
そう。新しきを産むには古きと別れよ。わかってくれ。わかれよ。わかれるしかないから。だからどうか代謝されてほしい。その願いが成就したということである。家主はいったいどこへ行ってしまったのか。もしかしたら、万が一、あくまでも証拠はないので、立ち退いただけではないかという可能性はゼロではない。
──では、この空白の二年はなんだったのでしょう?
そういうことである。この空白の二年が指し示す、この空白の土地の意味。可能性はゼロではないが、逆の可能性は限りなくゼロに近い。そしてここの動向がどうあれ、日本全体で言えば概ね新陳代謝が進行しているのである。むしろ、家ごとちゃあんと代謝される方が幸運でさえある。
いっそ羨ましい。家々も、主もなく骸をさらし続けるのは本意ではあるまい。だからこそ住む者のいない家は異常速度で朽ちてしまう、と言われても心情的についつい納得してしまう。物理法則と経験則の奇妙な一致。経験則はものごとの表面をなぞり、伝説はその間隙を縫って仕立てられた綺麗な装束。その確かさを保証するのはひとえに積み重ねた世代の数に準ずる。
コールタールのような暗黒液状物質が、しかし我々が冬の暖を取るのに必要で、けれどどうにも枯渇する。増えすぎているのか増えなさすぎるのか、鳩のように首を前後するとどっちがどっちかわからない。いっそピョコピョコと踊ってなにもかもを忘れるとたのしくなれる。
想像上の天の声も止んだところで、その問題を脇に置く。
この部屋はすこし掃除が必要だ。