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楽しい格差をゴミで埋めたら夢の島
この話をするにあたっては……誠に大変遺憾ながら……信仰の告白をしなければならない!(隠していない信仰の告白とは???)
なぜnoteで言論の機会を与えられているかわからない、ひとつあたり0.03円の記事を毎日量産する謎の機械が言いました。物質的にゆたかになったこの日本において、様々な格差があるうち「楽しい」という格差がその源泉ではないか──というようなことを。
同じくなぜnoteで言論の機会を与えられているかわからない、ひとつ4万円のゴミを買ってしまう謎の機械が言いました。おまえのゴミは、おまえにとってだけ何より価値がある──というようなことを。
しかし埋められない格差をうっかり忘れそうになった人類が我に返って言いました。そういう都合のいい事実歪曲に頼り過ぎるとダメ──というようなことを。
それでも誰もが語り続ける必要がある。生者の世界は生者のもの。死者の世界は死者のもの。その霧深きグレーゾーンで、賽の河原に無限に積み上がる石ころたち。それを供養し、橋なき橋を、三途の川を渡す舟守の責務を伝承するために。強いやつはほっといても強いので救わなくてよくて、弱いやつはほっといても弱いので救わないといけない──ということを。
* * * * *
人間は足が折れたら歩くリハビリをすると歩けるようになる。走るともっと遠くへ走れるようになる。筋トレをするともっとたくさん筋トレができるようになる。
筋トレの効用 is 何?
そうではなくて。筋肉も才能で。筋肉を人為的に引きちぎるのは誰でもできる。しかし超回復によってどれくらい「元を取れるか」は遺伝による。超回復によってどれくらい「レバレッジを利かせられるか」は環境による。超回復によってどれくらい「楽しい」を作れるかはおまえによる。
可愛いは正義で可愛いは作れる。化粧とメタ仮想世界によって。
楽しいは正義で楽しいは作れる。ゴミとメタ認知制御によって。
見えないものを見ようとして。望遠鏡を覗き込んでも何も見えない。けれども100回、覗き込んで「何か」を見つけちゃったら1億回だって覗ける。できないものができちゃうと、おありがてえことに感動が押し寄せる。できるかどうかはおまえしか知らない。知ろう。できそうかどうか知ろう。その「何か」への努力の才能があるかどうか知ろう。
その「何か」は無限にある。
努力の才能は「ひとつ」だと誰が決めた?
だから本当はできるのにできないと誤解しちゃってもいいんだ。どうせ他にもあるから。できるのにできないと予断を持つ方が、予断をゆるさない状況になる。なんでもいいからやろう。やれなかったら別のなんでもいいやつをやろう。たとえそれが他人から見たらゴミのようであっても。その目線がおまえに「おまえはゴミのようだ」と訴えていようとも。
けれど、ひとり孤独にバカにされる視線に耐えるのはつらい。
だからともだちが必要なんだ。立派でなくていい。
ゴミのようなものを愛でるゴミ友が。
東京ゴミ戦争
1950年代の高度成長期には東京都内でごみが急増し始め、それに対応するため東京都は当地をゴミの最終処分場として決定し、1957年(昭和32年)12月よりゴミの埋め立てが開始された。埋め立て中の1961年(昭和36年)7月23日に埋立地北部から出火、消防艇3隻での消火活動も及ばず2週間に渡り燃え続け、4万平方メートルが焼失している[7]。
(中略)
1965年(昭和40年)7月16日、夢の島で発生したハエの大群が強い南風に乗って、江東区南西部を中心とした広い地域に拡散し大きな被害をもたらした[8]。夢の島の南側に位置する南砂町の小学校ではハエ取りが放課後の日課となった。東京都と江東区による懸命な消毒作業が行われたが、抜本的な解決には至らず、警視庁・東京消防庁・自衛隊の協力を得て、断崖を焼き払う「夢の島焦土作戦」が実行された[5][9]。1967年(昭和42年)にはゴミの埋め立てが終了した。
運だけど。ゴミがめちゃくちゃ炎上したあと客観的にカミになることもある。歴史的にあるはある。ゴミの上に建つ東京の地価すごすぎ。関東大震災を食らったくせにずるいな? でも運だから。阪神淡路大震災や東日本大震災をおかわりしたいかというとそうではないな? でも運だから。
そんな無理して死んで客観的なカミにならなくても、無理せず生きて主観的なカミであり続けるようゴミに祈ることはできる。やめなよ。おまえは無理できないよ。無理するのを諦めろよ。でも祈れるよ。生きている限りにおいて。そして生きている限りでなければ、祈る必要はもうない。生きている間だけ飽きずに祈れりゃ、それで「元を取れてる」じゃあないか?
ゴミのようなおまえたちとゴミのようなおれたち。信仰を他者に押しつける必要はない。信仰と勧誘の自由は、嫌われない範囲の自己責任。日々ゴミのような現実を歩いては、帰り着いて夢を祈るおまえたちとおれたちは、いつもいつでもそこにいる保証はないけれど、そこではないどこかにはいる。
この四次元世界とは別の次元から、その格差を攻略しよう。
おれたちと夢の島でバトルしようぜ! たのしいぞい。
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