【短編小説】断捨離
マンションの入り口にある大きなゴミ箱に生ゴミの袋を放り込んだ瞬間、心が軽くなるのを感じた。
昨日、ちょうどテレビで断捨離の効果について観たところだった。その番組によると、断捨離は人の心を清らかにし物への執着を無くすことでその他の悩みも手離すことが出来るとのことだった。
なるほど確かに、まとめたゴミを部屋の外に出すのは清々しいものだ。ストレスが発散されるのさえ感じることが出来た。
その翌日から、私は部屋の隅にあるテレビが気になるようになった。ここ最近は電源を付けていないどころか、コンセントすら抜きっぱなしだ。捨ててしまおうか。そう思い立ち、テレビ台も合わせてリサイクルショップへ持って行くと、急に部屋がスッキリと広くなったように感じた。これなら掃除も楽だ。
断捨離は、とてもよいものだ。心と生活を軽くする。そう思った。
それから私は、次々に物を捨てるようになった。あまり着ていない服、人からのプレゼント、スマホに保存されていた写真、物置になっていた作業机、知り合いの連絡先。SNSのアプリもアンインストールした。私は最小限の道具で生活する、ミニマリストとなった。
一人暮らしを始めて三年になるが、時々母から連絡が来る。
「何か困ってることない?お金は足りてる?食料とか少し送ってもいいわよ。何か困ったら、連絡ちょうだいね。」
そんなことは辞めてくれ、と思う。食料なんか送られても、ゴミが増えるだけだ。お金だって最低限生きていけるだけあればいい。物もお金も人付き合いも、ありすぎると心も重くなる。
母からの連絡は、私にとっていつも重たい。母からの簡単な一言から、私はたくさんの情報や思考を受け取ってしまう。母はいつもお金や物を渡すことで、私を助けようとしてくる。けれど私はそれに対して、「罪滅ぼしのつもりか」と思ってしまう。
正直、私の実家はかなり裕福な方だ。父の経営している会社は上手くいっていて、高級な国産車と外車を一台ずつ所有している。しかし、それはわりと最近になってからの話だ。私が子供の頃は父の会社はまだ軌道に乗っておらず、事務仕事を担当していた母も一緒になって働き詰めだった。端から見れば彼らは、自分たちの会社のために力を合わせて必死に働く素敵な夫婦だったかもしれない。しかし、子供としては堪ったものではなかった。
私は寂しかったのだ。兄弟もおらず、一人家に残されていたあの日々を、今でも不意に思い出す。幼かった私は、ひたすらに寂しかった。大人になってからも時々思い出して、深い海に沈んだような孤独感に襲われる。
母は都合がいい人だ、と思う。今はお金も心の余裕もあるから、母は私に与えることが出来る。しかし、私が本当に欲しかったのは、子供の頃に母や父と過ごす時間だった。
今更、そんなことを言っても仕方がないのだけど。
私はそんな風に嫌なことを思い出した後は、また物を捨てなければと思うようになった。物を捨てると、負の感情を少しだけ自分の中から追い出せたような気持ちになれた。
だから、毎日苦しいことを思い出して、悲しいことを思い出して、寂しいと感じる私は、毎日毎日何かしらの物を捨てた。
どんどん部屋から物がなくなっていく。そのうち服の柄すら鬱陶しく感じるようになって、無地の服しか着なくなった。けれどそれでも飽き足らず、次は色が目障りになって、クローゼットの中はモノクロ写真のようになった。
断捨離を始めてから五ヶ月後、私は引っ越しをした。前に住んでいた1Kの部屋は、ドアやクローゼットの扉、窓の枠などが青かったので、目障りに感じるようになってしまった。壁もドアも真っ白な部屋に住みたいと思ったのだ。
新しく借りた部屋は、今の自分の給与で入居審査がギリギリ通る家賃のマンションだった。壁が白いこと、床がシンプルなフローリングであること、そしてワンルームであることが私の条件だった。ワンルームにこだわったのは1Kに住んでいた時、キッチンと部屋とを隔てるドアすら鬱陶しいと思ったからだ。
内見を重ねてやっと見つけたその部屋は、14階建てのマンションの8階だった。築年数が浅くアクセスのいい都心に建っているので、ワンルームでも家賃がかなり高い。しかし、シンプルで清潔ですっきりとしたこの部屋がいいと思った。
引っ越しの際運んできた家電は、冷蔵庫だけだった。前の部屋で使っていた洗濯機は勢いで捨ててしまったが、最悪洗濯板で洗ってもいいとさえ思っている。家具に至ってはほぼゼロで、持ってきたものと言えば布団と最小限の服や下着くらいだ。
私はもう、何もかもが重たいのだ。
夕方、ベランダに出てみる。さすが8階だ、街の音が遠い。顔を出して地面を覗き込むと、コンクリートに意識が吸い込まれるような感覚になった。急に心臓が鳴って、恐くなり頭をベランダへ引っ込める。
ここから飛べば人生も捨てられそうだな、と思い一人で苦笑する。
けれど次の瞬間には、それもありかな、と思っていた。
こんなにも重たい私の日々は、私の過去は、人生は、あのコンクリートに向かってどれくらいの速度で落ちるのだろう、と思った。
冷蔵庫も捨ててくれば良かったな、と思った。
翌日、私は会社を辞めた。これでは、もうこの部屋の家賃は払えない。しかし退職するのは、部屋を借りる契約をした時から決めていたことだった。
最後の出勤日は珍しくビールを買って帰った。家に着くとスーツのままベランダに出て、表面に汗をかいているビールのプルタブを引き、喉を鳴らして飲み始める。
頭の中が少しほろりとしてきた頃、またベランダから地面を覗き込んだ。
高さに足がすくみ、一気に酔いが冷める。同時に「こんな人生、捨ててしまおう。」と思った。もう、覚悟はできているつもりだ。
大きく深呼吸をして、唾を飲み込んだ。
スーツのスカートからスマホを取り出し、着信履歴から電話をかける。2回コールが鳴ったところで、相手が電話に出た。
「ちょっと、ミキから電話してくるなんて、何かあったの?大丈夫?」
また、私に与えようとしてくる。罪滅ぼしのつもりか、と思った。
けれど同時に、27年分の、海の底で胸に染み込んだ重たい涙が込み上げてきた。罪滅ぼしをしてよ、この寂しさを埋めて、と思った。
「ねぇ。私の部屋の家賃、払ってよ。お母さん。」
夕方の空が、涙のせいで水中で見る景色のように揺れていた。
けれど同時に、真っ白い空っぽの部屋に少しずつ西日が満ちていくのが、よく分かった。