【超短編】たからもののような
飼い犬が「私を刺して」と言った。
傍には包丁があった。
それは料理で使う、幅が広めの包丁だった。
ダックスフンドの腹を刺す。
そのとき自分が躊躇したかどうかは、覚えていない。
白く柔らかな毛に、線のような傷が付いた。
この世界のいとしさをすべて引き受けているような、真っ白い腹に傷が付いた。
ダックスフンドは、ゆっくりと横たわる。
力が抜けていくことに1ミリも抵抗せず、天使の羽が舞うような身軽さで横たわる。
苦しそうなのに心地よさそうで、私はダックスフンドのことが恐ろしくなった。
自分のことも恐ろしかったので、彼女に近づけないままぼんやりとした感覚で立ち尽くす。
少しの間があって私は、やっとダックスフンドの傍らに寄った。
ダックスフンドは瞼を閉じて、その顔は本当に美しかった。
「痛い?」
と訊く。
ダックスフンドは首を振る。
白と黄金の中間の色をした犬が、日に照らされて、この世のものとは思えないほど美しく輝いた。
いや、あの瞬間のダックスフンドは、すでにこの世のものではなかったのかもしれない。
目が覚めると、昨日と同じ朝だった。
リビングに降りると、低いテーブルの下で老犬が眠っていた。
家族がバタバタと、家を出る準備を進めている。
釣られて私も、化粧をはじめた。
一番最後に家を出ようとしたとき、犬のことを思い出す。
リビングに戻り、彼女に触れた。
老犬の目は、水晶体がすっかり曇ってしまって、私はそのことが悲しくて堪らない。
真っ白い目をした黒い老犬の命について、考えたくもないのに、愛しているので
私は夢の中で、ダックスフンドを刺した。