【超短編】充希が人を殺した日
電話越しに、救急車の音が響いていた。
「ごめん。あたし、殺した。人を」
充希の息は荒く、乱れていた。
僕は、充希が言っていることの意味が理解できないまま立ち尽くした。
「何を…言っているの?」
「だから、別れよ。さよ、なら」
僕の喉から声が出るよりも先に、電話は切れた。
「何を、言っているの……」
僕は、一人呟く。
震える声は、誰にも届かない。
誰にでも素っ気なくて、冷たくて、人と馴れ合わない。
派手な髪色、両耳には数えきれないピアス。
充希は大学の入学式から、明らかに浮いていた。
それでも、僕は充希に恋をしたのだ。
充希は矛盾した人間だったと思う。
9月。
初恋の人に裏切られて、道で潰れていた僕を拾った彼女は、どう考えても優しすぎた。
ただそんなことが、僕が生きるための光になってしまった。
***
充希のあの電話から3日間、僕はニュースを見ることができなかった。
大学には行かず、部屋に籠った。スマホの電源は切っていた。
充希の言う通り、彼女が人を殺めていたとして、僕はその事実を受け入れることができないだろう。
充希がひどく誰かを傷つけたことなんて、命を奪ったなんて信じたくなかった。
充希は本当は優しい人間なのだと、思い込み続けたかった。
充希には、光で在り続けてほしい。
僕は充希に理想を押し付けて、本当の充希を愛してなんかいなかったのだということもまた、知りたくなかったのだ。
情けなくて子どもで、自己中心的な僕の顔は、自分勝手にげっそりとしている。
顔を洗ってふらふらとリビングに向かうと、母がテレビを見ていた。
僕は不可抗力で、ニュースを目に入れてしまった。
『先週金曜日に○○市の大学近くで起きた、殺人事件についての続報です』
たしかに、事件は起きていた。
○○市にある大学は、うちの学校しかない。
充希は、人を殺したのだ。
見たくない、聞きたくない、知りたくない。
それなのに、僕は瞼を閉じれず、耳を塞げずにテレビの前にかじりついた。
催眠術にでもかかったみたいに、その情報から逃れられなかった。
『阿倍霞容疑者と、被害者の板野充希さんは大学の同じ学科で…』
「え?」
今、アナウンサーは何と言ったのだろう。
原稿を、読み間違えたのではないだろうか。
”被害者”の、板野充希…?
『腹部から血を流して倒れている板野さんを発見した近隣住民が通報をしましたが、搬送先の病院で死亡が確認されました』
死亡…?
彼女からの電話を思い出す。
救急車の音、乱れた呼吸。
「「ごめん。あたし、殺した。人を」」
どうして?
僕は胃の中から熱いものが込み上げてくるのを感じて、トイレに駆け込んだ。
便器に顔を突っ込む。
胃酸を吐きながら、脳内では原稿を読むアナウンサーの声が響いていた。
『阿倍霞容疑者』
その人は、充希の友人だった。
充希がただ一人、大切に思っていた友人だった。
****
僕は充希は本当は優しい人間なのだと、思い込み続けたかった。
だから僕は3日の間、ニュースを見れなかったのだ。
けれど本当のところそれは、彼女が人を殺したかもしれないと思っていたからだった。
充希は人を殺していなかった。
充希は薄れゆく意識のなかで、僕に別れを告げた。
充希は、そういう人間だった。
それなのに、僕は。
充希が死んだ日、僕は彼女の心を殺した。
****
先日の女子大生殺害事件の現場は、やや不可解な点が多かった。
板野充希が一人暮らしをしていたアパートの床には、血液で赤く染まったスマートフォンが転がっていた。
スマートフォンの最後の発信履歴には、恋人の番号があった。
スマートフォンは彼女が刺された場所とは違う部屋にあり、彼女が移動した道にはべっとりと血痕が残っていた。
あの出欠量ならば、普通はその場で腹部を抑えて止血しようとするはず。
しかし、板野充希は床を這って移動している。
何より、気味が悪かったのは板野充希の死相だった。
死に至るほどの大怪我を負っていたにも関わらず、どこか幸せそうで、満足したように微笑んでいた。
まるで、何かを守ることに成功したような、満足したような表情だった。
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