葬る(春の/古川本舗)
「忘れる」は、
ときどき、
「葬る」と同じになる。
そういうときの「忘れる」は、
つまり、
「忘れたい」ことを、自分の中から放り出すってことだ。多分。
なんだか、そうなると「忘れる」っていうのは、
自然とそうなることじゃなくて、
自分がそう願ってすることみたいだ。
「無かったことにしておきたい」ことっていうのは、
たぶん、誰もが抱えているんじゃないかな。
多かれ少なかれ。
どちらでもいいんだけど、
ただそれは、
「忘れたい」と願って、「忘れる」ことができるものなのかな。
「忘れる」っていうのは、
「忘れたい」ことに対する思い入れが強いほど、
「忘れにくい」ものだ。
だから、「葬る」なんてことばがあるのかな。
「忘れたい」ことを、だれにも見つからないようにするために。
ほうむる【葬る】
①なんらかの意味で縁のある人(たち)が、死体・遺骨をおさめて、
安らかな死後を祈る。
②公表し(され)たくない事柄を、人目につかぬように処置する。
ところで。
僕には「忘れたい」ことがたくさんあるけど、
「忘れたくなかった」こともたくさんある、はず。
そう。
「忘れたくない」じゃなくて、
「忘れたくなかった」こと。
だから、何を忘れたくなかったのかは、
僕にも、全くわからない。
「きっと、これからも思い出すことになるだろう」
これまでの人生を、ふり返ってみる。
「忘れたくなかった」ことは、たくさんあった気がする。
気がする、だけだけど。
「これからも思い出す」ことは、無かったから。
「これからも思い出す」と誓ったことすら、きっと、思い出せなくなる。
でも。
ソレが、僕にとって大切だったことはたしかだ。
だから、ソレが風化してしまう前に、
せめて、自分の手で葬っておきたい。
それが、せめてもの義理になると。
僕が「葬る」のは、
「忘れたい」ことじゃない。
「忘れたくなかった」ことだ。
だって僕は、
ソレのことを、恨んでも憎んでもいない。
ただ、ソレが本当にあったということを、遺しておきたいだけだ。
それは、ずっとずっと先のことかもしれないけど。
いつか、ソレのことを、
ほんの少しでも思い出すことができて、
涙することができたなら、
きっと、ソレへの弔いになる。
もう思い出すことは、ないかもしれない。
でも、ソレらを捨て置くことも、決してしない。
春も夏も秋も冬も、
一周して、
過去も未来も現在までも――。
何千何万と数えきれない墓標の前で、僕は誓う。
引用:山田忠雄他編(2017)『新明解国語辞典』第七版,三省堂.
春の(「ガールフレンド・フロム・キョウト」収録)/古川本舗