「緋い約束、さよならは刹那」前編
※この小説は、イラストストーリー部門の宇佐崎しろ先生のお題イラストをもとにした物語です。
「――どんな気分? 天才エクソシスト様」
ぴょこりと軽やかに体を乗り出して教卓に両肘を付き、その少女はこちらに距離を詰めた。息も上がり、顔を真っ青にしたアイリとは対照的に、少女は余裕の笑みを浮かべ、愉しそうにこちらの出方を伺っている。どちらが優勢かは語らずとも明らかだった。
指先は震え、拳銃に聖弾を篭めることすらもままならない。
冷や汗が背中を伝う。傷を負い、体力も削られ、ぼろぼろになった身体を必死に支えながら、アイリは目の前にいる彼女を見た。
――どうしてこうなってしまったのだろう。この一ヶ月、二人で過ごした日々が走馬灯のように駆け巡る。状況を未だ冷静に呑み込めないまま、仇であるはずのその相手を見つめる。
血を映したようなルビーの緋を宿した少女の瞳が、薄明かりの中で妖しく光った。
*
都内某高校。腰まで届く金の髪を揺らして、ランウェイ上のモデルの如く廊下を闊歩する、明らかに異分子である白衣の彼女は、赴任して早々に生徒らに囃し立てられていた。その目立つ髪色に加え、ほっそりと長い体躯と均整の取れたプロポーション、そして小さく整った西洋人風の美しい顔立ち。どこからどこまで見ても完成されたその姿に、目を奪われない者はいなかった。
「今日から山口先生に代わって化学基礎の授業をする臨時教師の水上アイリです。よろしくお願いします」
教室に入り、アイリはそう簡潔に己の立場を説明し、そのまま流れるように教科書を開いた。授業を始めようとするアイリを遮るように、男子生徒が大声を上げた。
「せんせーってハーフっすかー」
その不躾な言葉に、アイリは顔を顰めた。
「静かに。授業を始めます」
「えーっ、ケチっすね」
アイリは無視して授業を始めた。淡々と教科書を読み上げ、プリントを配り、問題を解かせる。ごく普通の――あるいは凡庸な授業が進むほど、生徒たちは興味を失い、真面目に取り組む者は僅かだった。
「そこ、私語は慎みなさい」
こそこそと話す生徒たちをチョークで指せば、彼らは不満そうに口を噤む。アイリは溜息を吐いた。
どうしてこんな、不真面目な生徒ばかりの高校に入る羽目になったのか。こんなことのために、私は仕事をしているわけではないのに。そう、もっと信念を持って、社会のために働くはずだったのに……。
考えても仕方のないことだ、とアイリはその思考を止めた。長期的な滞在になるかもしれない。その場に順応し、『探るべきことを探ること』……それが彼女の使命なのだから。
授業が終わる頃には、アイリに好奇の視線を向けていた生徒たちはすっかり興味を失ったようだった。高校生にとって、授業のつまらなさというのは教師を測る一種の物差しである。つまらない授業をする冷淡なその臨時教師に、ほとんどの生徒が失望し、関心をなくしたらしい。それでいい、とアイリがまた、溜息を吐こうとしたとき、不意に背後から「せんせ」と声を掛けられた。
振り返ると、ピンクのハイライトカラーを入れたセミロングの黒髪を、高めの位置でハーフツインにした、いわゆる地雷系、といった風体の女子生徒が、口元を教科書で隠して立っていた。たしか、名前は夢園ミヤ、だっただろうか。
「さっきの授業、わかんないとこあったんですけどぉ、聞いてもいいですかぁ」
「ええ、どうぞ」
アイリが質問に淡々と答えると、彼女は満足そうに頷いた。
「えへ、ありがとうございますぅ。また聞きに来てもいいですかぁ」
「いいですよ」
アイリの言葉に、ミヤはにっこりと笑った。
放課後、自分の受け持った授業を終えると、アイリはそそくさと荷物を片付け学校を去った。そこから直接向かったのは、昨日の夜に事件が発生したと報告を受けた現場だ。現場検証には居合わせたものの、もう少し調べる必要がある、と彼女は考えていた。
ペットボトルに入った水を現場にばら撒くと、沸々と赤黒く禍々しい靄が浮き上がる。ある特性のある者にしか見えないそれを見て、アイリは一人、厳しい表情を浮かべた。
「やはりまだ悪魔の気配が残っている。状況から察するに、殺されたのはここではないと上の捜査官も話していたな。……ここですらここまでの禍々しさなのだから、相手は超級、SSSランクの可能性すらある」
アイリはしゃがみ込んで靄を試験管に集め、蓋をして、その場を後にした。
「楠神アイリ、ただいま戻りました」
とある施設に入ってすぐ、アイリはそう声を上げて敬礼をした。
「ご苦労。何か収穫はあったか」
重役らしき老年男性が重々しくそう尋ねると、アイリはかぶりを振った。
「いえ、今日のところは何も。帰り際に現場に寄って聖水反応を確かめましたが、まだ気配が残っていました。この試験管にサンプリングしてあります」
アイリがその標本を彼に差し出すと、彼は顔を歪めた。
「間違いなく、相手はただの上級悪魔ではないな」
「ええ。引き続き潜入捜査に集中します。これ以上の被害を広げないためにも」
「ああ。頼む」
アイリは深く礼をして、彼の元を去り、自分のデスクへ向かう。そこに広げられたいくつもの変死事件の資料に再び目を通した。
――警視庁公安部特例事案捜査班所属、悪魔祓い第一級、楠神アイリ。英国の悪魔祓い直系の血を引き、十五歳のとき最年少で上級悪魔を祓った天才エクソシスト。弱冠二十二歳にして組織の主戦力であるスーパーエリート、それが彼女の真の姿である。
先月からすでに九件発生している、都内連続殺人事件。その様態は多岐にわたり、どのケースも犯人は未だ見つからない。匙を投げた捜査官らがこの特例事案捜査班、通称特例班に捜査依頼を回してきたところ、全ての事件に同じ上級悪魔の残滓が色濃く残っていたのだった。
唯一の手掛かりは、被害者の関係者の複数人がとある同一の高校に通っている、ということだった。そのため、公安部の上層からこのようなお達しが来たのだった。
『高校への潜入捜査を行い、対象を見つけ次第討伐せよ』。
無茶な命令であるが、上の指示は絶対であるのがこの世界である。そこで選ばれたのが、上級悪魔と渡り合うことのできる戦闘能力を持ち、上級悪魔の討伐経験もあるアイリだった。さらに、彼女は昨年まで大学で化学を専攻しており、高校教員免許も取得済み。これ以上ない適任だといえた。
「アイリさん、お疲れさまです。アイリさんでもまだ掴めない悪魔って相当ですよね。上級悪魔ほど気配を消すのが上手いとは言いますけど、アイリさんは相当『見える』のに」
同期の笹倉が缶コーヒーを差し出しながらそう話しかけてきた。アイリは「ありがとう」とそれを受け取ってから、「そうね」と返した。
「R級くらいだったらはっきり見えるけれど、それより上級になるとなかなか。聖水を人に掛け回るわけにもいかないし、地道にやっていくしかないわね」
「それ、想像したらだいぶ面白いですね」
「そう? 今日何度もそう思ったわよ。すれ違う人みんなに掛けて回ればすぐ特定できるのにって」
「はは、疲れてますね」
「ええ、まあ」
「俺でも手伝えることがあれば言ってくださいね。悪魔祓いは足手まといになると思いますけど、高校の仕事の手伝いとか、雑用ならなんでもしますんで」
一見気遣うような彼の言葉の奥に、あわよくば取り入りたい、という本音が透けて見えて、アイリは「じゃあ、何かあれば頼むわ」と愛想笑いをした。
恩を売っておけば将来いい役職に就けるかもしれない、などというのは、浅はかな考えだ。そもそも呪術的な存在を信じる人間もあまり多くないこの日本では、この特例班は警視庁の末端であり、秘密裏の組織なのだから。
特例班の本部からほど近いアパートの一室にアイリは住んでいる。最低限のものしかない、殺風景で生活感もないに等しい部屋だ。長い一日を終えて帰宅したアイリは、玄関から部屋に入ったその瞬間、へたりと座り込んだ。思った以上に疲弊している。当然だ、新しい環境に配置された上、朝からずっと事件のことで頭がいっぱいだったのだから。
「……さっさと寝よう」
なんとなく、悪夢の予感を抱えながらも、アイリは寝る支度を始めた。
『――たしかにあの子は才能がある。だが、本家に迎え入れられるほどのレベルでもない』
今より少し幼いアイリが、アンティーク様式の扉越しにその声を聞いたのは、エクソシストの三代名家のうち一つ、クラーク家の本拠地であるイギリス滞在時、十五歳のときに最年少で上級悪魔を祓ったその直後のことだった。
アイリは英国の伝統的な悪魔祓いであるクラーク家直系の血を引いている。しかし、アイリの祖母は本家のエクソシストの日本滞在時の愛人であり、その息子である父は悪魔祓いの才を受け継がなかった。ゆえに、アイリの存在は一族にとって受け入れ難いものであり、いくらその才能を見せようとも、彼らは彼女を迎え入れようとはしなかった。
『……それに、あの子にはエクソシストとして致命的な欠陥がある』
『ああ、それはそうですね』
その言葉にアイリは心臓を絞られるような苦しさを覚えた。致命的な欠陥? それは、血筋のことだろうか。それとも、私が……私が何か足りないのだろうか?
わからないまま、アイリは逃げるようにその場を走り去った。その一言は、十五歳の少女には、あまりに耐え難いものであった。
「……やはり悪夢だったな」
翌朝、アイリは頭痛とともに目を覚ました。ずいぶん昔の夢、いつもと同じ、繰り返し見る悪夢。
「……見返してやる。誰も成し遂げ得なかったことを成し遂げて、私は本国に帰るんだ」
アイリはまだよく開かない瞼でまっさらな壁を睨め付け、そう呟いた。
この日の授業でも、前日と同様の反応が別クラスで見られた。極力目立たない方が動きやすいため、アイリにとってはむしろ本望であったが、例外もいた。赴任して初めての授業をしたあのクラスで、またしてもあの女子生徒、夢園ミヤが話し掛けてきたのだ。
「せんせ、今日はここ教えてくださぁい」
「これはこの組成式だから、こういう計算になって……」
昨日はすぐ理解した様子だった彼女は、今日は全く話についていけない様子で、可愛らしく小首を傾げた。
「んー、難しいなぁー。せんせ、放課後にゆっくりレッスンしてくれませんかぁ? だってこれ、長いし、せんせも移動あるしぃ」
「……今日の放課後は、予定があって」
「じゃあ明日はどうですかぁ」
「明日も、予定が」
「えー、そんなぁ、それって変ですよぉ」
「変?」
「だってぇ、他のせんせは残ってますよ? みーんな放課後教えてほしいって言ったら教えてくれるしぃ」
「……」
アイリは思案を巡らせた。あまり高校の仕事を増やすと、本業に支障が出る。しかし、怪しまれるわけにはいかない。誰が敵であるのかわからない以上、この場では『ただの臨時教師』を演じ切らねばならない。
「わかりました。予定はキャンセルしましょう。そんなに大事な予定でもありませんし、生徒の悩みを解決するのは教師の務めですから」
「あは、せんせって真面目ぇ」
「あなたも真面目でしょう。質問に来る生徒なんて、他にいませんよ」
「そー、ミヤ、真面目なんですぅ」
彼女は悪戯っぽく笑って、上機嫌に自分の席へ戻って行った。
「水上先生、夢園さんが呼んでいますよ」
放課後、職員室で書類仕事をしていると、隣の席の女性教員に声を掛けられた。
「あ、はい」
アイリが立ち上がると、彼女は手招きをした。首を傾げながらも近づいたアイリの耳元に顔を寄せ、彼女はこう言った。
「夢園さんには気をつけたほうがいいわよ。あまりいい噂を聞かないから」
「そうなのですか? 真面目な生徒に見えますが」
彼女は呆れ顔をした。
「なんでも、年齢問わず男性教員を籠絡しているとか……学校では大人しそうに過ごしているけれど、外では夜遊びをしていたりとか素行も良くないみたいよ。話し方もなんだかぶりっ子っぽいし、裏がありそうな感じがするわよねぇ」
「そうですか。ご忠告感謝します」
ぺこりとお辞儀をして、アイリは夢園の方に向かった。
「あ、せんせぇ、さっきの続き教えてもらいにきましたぁ」
「わかりました。空き教室に行きましょう」
そう告げて、アイリは白衣を翻し、職員室を後にする。ミヤは後ろからぴょこぴょこと付いてくる。
普通教室から少し離れた棟に、普段は使われていない空き教室がある。いわゆる多目的教室というものだ。
その教室の鍵を開け、アイリは中にある机を動かし、二つを向かい合わせの状態にした。
「私はこちら側に座りますので、あなたはそこに座りなさい」
「はーい」
ミヤは椅子に座り、両手で頬杖を付いた。
「ねえねえせんせ、ミヤ、せんせのこともっと知りたいなぁ」
「私は化学のことを教えに来ました。あなたが頼んだのでしょう、真面目にやりなさい」
ミヤは不満そうにしながらも、その言葉に従うように教科書を開いた。
「ここの計算問題ですぅ」
「ここは授業で言ったとおり、このページに書かれている方法で計算します。組成式を見て数を当てはめれば難しくはありません」
「そもそもぉ、モルとかわけわかんないしぃ、何の役に立つんですかぁ」
「何の役に立つどころか、化学の基本です。これがなければ学問が成り立たない」
「ふーん」
夢園は興味なさげに相槌を打って、ノートにさらさらと計算を書いていく。
「これで合ってます?」
「出来るじゃないですか。じゃあ、今日はこれで終わりましょう」
アイリが席を立とうとすると、夢園がぐいと白衣の袖を引っ張った。
「せんせ、ミヤのこと鬱陶しい?」
「……どうして?」
「だってぇ、みんなそう言うんだもん。クラスの子たちもぉ、あたしのこと白い目で見てくるしぃ。男の子は優しいけどぉ、女の子には好かれないみたい」
くるくると髪を弄りながら、ミヤは唇を尖らせた。
「別に、私は鬱陶しいとは思っていませんよ。ただ、誤解されるような行動は慎んだ方がいいかもしれないわね」
「誤解ぃ?」
「あなた、いろいろと噂があるみたいじゃない」
ミヤは呆気に取られたように瞬きした後、くすくすと笑い出した。
「そんなの、ミヤのこと嫌いな人たちが言ってるだけでしょー。せんせ、真に受けちゃったの?」
「……ええと、ごめんなさい。他の先生からそういった話を聞いたもので」
「せんせーたちにもそんなこと言われてるんだぁ。女の人ってこわーい。あ、でもぉ、アイリせんせは怖くないなぁ」
「……何故ですか」
「だってぇ、アイリせんせ、ミヤと同じで友達いなさそーだもん」
「……失敬な」
ニヤニヤとアイリを眺める彼女を軽く睨んで、アイリは席を立った。
「とにかく、今日はこれで帰りますからね」
「はーい」
ミヤは大仰に肩を竦め、気の抜けた返事をした。
潜入捜査開始から十日が経過し、アイリがようやく高校の仕事にも慣れ始めた頃、いつものように高校を出て特例班に戻ると、「ああ、やっとお戻りになりましたか」と笹倉が出迎えた。
「どうしたの。なんだか慌ただしい様子だけれど」
「急に悪魔祓いの依頼が入ってですね。といっても下級悪魔なんですけど、何しろ数が多いらしくて。今からちょうど出動するんですが、アイリさんはやっぱりお疲れですよね?」
気遣われてはいるようだが、言外に『できれば来てほしい』という意思が見える。
「とにかく、資料を見せて」
「はい。こちらです。都内複数箇所で集団の下級悪魔が出現しており、体調不良者が複数人などの被害が出ているそうです」
「……連続殺人事件との関連がある可能性もある。同行しましょう」
アイリの言葉に、笹倉はほっとしたような顔を見せた。
「はい! では向かいましょう。俺たちの担当箇所は渋谷です。他に武田さんチームが池袋、茅原さんチームが新宿に向かっています」
「了解。すぐに向かいましょう」
武田も茅原も、アイリの先輩で優秀なエクソシストだ。下級悪魔の討伐に彼らが動員されることには疑問が残るが、考えていても仕方がない。班長のことだから、何か意図があるのだろう。
渋谷スクランブル交差点に辿り着くと、あちこちから悪魔の気配を感じた。下級悪魔であればあるほど、気配を消すのは上手くない。せいぜい、悪霊レベルのものだろう。
「手分けして祓いましょう。あなたたちは東へ。私は西に行く」
「一人で大丈夫ですか?」
まだ入って二、三ヶ月の新人がそう訊くのに、笹倉が答えた。
「アイリさんなら何も心配要りませんよ。無理しないでくださいね!」
「ええ。そちらも気をつけて」
そう言い残して、アイリは気配の方へ向かった。
「主なる神よ、聖なる御使よ。我にその力を貸し賜え」
指を交互に重ね合わせ、目を瞑ってそう呟けば、周辺を支配していた邪気が一挙にふっと消え、光の塵が舞う。
下級悪魔祓いは、簡単なものだった。アイリの実力なら聖水を使うまでもなく、持ち得る聖力だけで殲滅することができる。量は多いが、これなら、あの新人たちでもどうにかこなせるだろう。
しかし、同時多発しているということが、どうも引っ掛かる。まるで、何かの目眩しのような……。
アイリはハッとした。ような、ではない、これは明らかに目眩しだ。班長がわざわざ優秀なエクソシストを派遣しているのは、そこに隠された何かを見つけるためだろう。アイリは急いでまだ残っている下級悪魔を探し、試験管に生け取りにする。かの連続殺人事件との繋がりがあるのなら、今この瞬間、新たな事件が起きようとしている可能性が高い。
「渋谷、新宿、池袋。この周辺にいるはず……」
周辺で、悪魔の気配が残っている場所を探る他ない。アイリは走った。人目につかず、治安があまり良くない場所、彼らはそういった場所を好む。危険ではあるが、人間から身を守る程度ならアイリには容易い。奥へ奥へと突き進む。そもそも渋谷にいるかどうか分からないが、今できるのは探すことだけだ。
しばらく気配を辿ったところで、突然大きな気配が周囲を覆った。この気配は、ある程度の知能がある悪魔の気配だ。アイリが察知できるということは、上級の中でも位の低いR級程度といったところだろう。
アイリは拳銃を上着の内ポケットから取り出した。戦闘用に特殊加工された聖弾の込められた、アイリの愛用するリボルバーだ。
禍々しさが強くなる方へ走ると、そこにはビルほどの巨大な人型のもやのような悪魔が、周囲の人間を掴み、生気を吸い取っていた。
「ンア? オマエ、エクソシストカ?」
「その人間を離しなさい」
アイリは拳銃を構え、悪魔を睨みつけた。
悪魔はまるで煙草を吸うかのように人間の生気を吸い、そのまま放り投げた。
「ホウラ。オ望ミドオリ、離シタゾ。ナゼスグニ殺サナイ?」
「あなたの後ろにいる悪魔の情報を十秒以内に吐き出しなさい。ことによっては、弱らせる程度で済ませましょう」
悪魔は耳を劈くような声で狂ったように嗤った。
「アノオ方ハ、素晴ラシイ。タダノ下級悪魔ダッタワタシヲ、ココマデ強クシテクレタ。オマエハ、アノオ方ニ敵ワナイ」
「そんなことは訊いていない。あのお方とは誰のことだ。今何処にいる?」
「新宿ダ。モウトックニ、終ワッテイルダロウナ。……サア、オマエノ生気モ吸ワセロ」
伸ばされた悪魔の腕を素早く躱し、そのままアイリは聖弾を額に一発、正確に打ち込んだ。すると悪魔は耳障りな断末魔を上げながら消滅し、行き場を失った聖弾はコンクリートに叩きつけられた。
下級悪魔の討伐という情報だったはずだ。何かがおかしい。
しかし、訊き出せるだけの情報は手に入れた。一刻も早く新宿にいる茅原に早く連絡しなければ。
アイリはスマホを手に取り、茅原の番号を呼び出したが、電話中らしく、応答がない。仕方ないので留守電を入れて、笹倉たちの状況確認をするか、と、彼らの担当である東の方へ歩きながら、笹倉の番号に電話を掛けた。
「もしもし。こちら楠神。そちらの状況は」
『アイリさん! すみません、援助来てもらえませんか。上級の、おそらくSR級らしき悪魔と交戦中でして、皆頑張ってはくれてるんですけど、殻が硬くてなかなかトドメが刺せなくて』
「了解。すぐに向かう。とにかく悪魔を弱らせることに集中して」
『わかりました! お待ちしてます』
笹倉の方にも出ていたか。これは、一体何の目的なのだろう。今までの事件では、ここまで大規模な目眩しはなかったはずだ。
本部にも電話を入れるが、応答がない。茅原に伝えたのと同じ内容を留守電に残して、アイリは東に走った。
「笹倉! 皆、下がれ!」
「アイリさん!」
脇差で悪魔の攻撃を受けていた笹倉が、その瞬間に後ろに下がる。
「速水は援護狙撃を頼む。前衛の皆は悪魔の攻撃範囲内から外れなさい」
「はっ!」
アイリは悪魔を睨みつけた。こちらの悪魔は、何本もの大きな脚を持った蜘蛛のような形をしている。笹倉や他の皆が健闘したおかげで、その半分は切断されており、力も弱まっていた。速水はアイリに攻撃が行かないように、近づいてくる脚をライフルで遠隔射撃してくれている。
アイリは悪魔の目に狙いを定め、片目ずつ弾丸を打ち込んだ。ギギギ、と金属が軋むような音を響かせながら敵は闇雲に暴れ始める。
攻撃を避けながら、アイリは後ろに向かって叫んだ。
「笹倉、脇差を敵の頭に向けて投げろ!」
「えっ? は、はい!」
「こういう敵には斬撃で致命傷を与えることはできないが、刺突は効果的だ。今皆で一斉に攻撃すれば敵の体力を極限まで削れる。そうしたら消滅させられるはず」
アイリの言葉に、後ろに下がっていた皆が一斉に攻撃を仕掛ける。ある者は銃撃、ある者は小道具で、ある者は体術で。
連続攻撃を繰り返すと、やがて悪魔は小さな呻き声を上げながら消滅した。
わあっ、と、少し疲れ気味の歓声が上がった。
「攻撃特化型の敵との交戦は大変だったでしょう。よくここまでやってくれました。ご苦労」
「本当に来てくださって助かりました。俺たちだけじゃ消滅させられなかったと思います」
「どういたしまして。しかし、下級という情報だったのに、どうしてこんな近距離で上級悪魔が二体も……」
皆が困惑したように顔を見合わせる。アイリの眉間の皺は深まるばかりだった。潜入捜査が始まって初めての事件だ。考えたくはないが、こちらの動きが掴まれている可能性がある。もしかしたら、自分の行動が原因かもしれない――。
それより、武田と茅原は大丈夫だろうか、とスマホを手に取ったとき、突如本部から着信が来た。
『新宿で遺体が見つかった。茅原らが現在捜査中、他部隊は悪魔の討伐を終え次第撤退せよ』
茅原はどうやら、事件発生には間に合わなかったらしい。アイリは携帯を両拳を強く握りしめた。
未だ標的の悪魔には辿り着けないまま、とうとう十件目に達してしまった。一秒でも早く、手がかりを見つけねばならない。
「撤退命令だ。本部に戻ろう」
彼女が声を掛けると、皆が口を揃えて「はい!」と返事をして帰路へと踏み出した。
歩き始めた皆の後ろ姿を見つめながら、まだ悶々としていたアイリはぽつりと呟いた。
「……私は潜入捜査に集中しよう。今私にできることはそれだけだ」
長い髪を棚引かせ、アイリは夜の街から出て行った。
これだけ被害が多発する連続殺人事件は、巷でも噂になっている。アイリの潜入する高校でもそれは同じだった。
「てか、こんだけ事件起きてんのに犯人捕まえられない警察無能すぎ」
「それなー、しかも高校生も殺されてるって噂じゃん? 下手したら俺も殺されるかも」
「なんか無差別ぽいしね、怖ーい」
先日の事件が起きた翌日、特例班による調査の区切りも付いたところでかの殺人のニュースが民間人へ流れると、生徒たちの話題もそればかりになっていた。
アイリは拳を握り締めた。此処に来てから二週間になろうとしているのに、何一つ情報が得られていない。生徒の会話に耳を傾けて噂を集め続けても、一向に関連する情報は出てこない。職員室でそれとなく話題を振ってみても、結果は同じだった。
私は、認められなければならないのに。罪なき人々の命を奪い続ける冷酷な悪魔を、この手で捕らえなければならないのに……。
今回の被害者男性は、中年の男だった。被害者のスマホには、買春をしているような形跡があったという。この高校との関連性はまだ掴めていないが、その相手がこの中にいる可能性は否めない。
どの事件も、被害者が私怨を買っていたらしい情報が入っている。悪魔の起こした事件としては、あまりにも人間味がありすぎる。悪魔が恨みを持っている人間の代わりに手を下している可能性が高いだろう。しかし、それは悪魔の生態からは掛け離れている。本来悪魔とは、人間を堕落させて愉しむもののはずなのに、事件はまるで、私刑を下しているかのようで……。
アイリが思案を巡らせていると、不意に見慣れたハーフツインの少女が飛び出してきた。
「せーんせ、眉間に皺寄ってるよぉ。考え事?」
「……ええ。先日の例の事件、あまりに酷いものだったな、と、生徒の会話を聞いて思いまして」
事実を交えつつ無難に返すと、ミヤは神妙な顔をした。
「……そうだね」
低いトーンで重々しく呟いた彼女に、アイリは少し驚いた。いつも飄々と笑っているミヤでも、こんな表情をすることがあるのか。そう思った直後、この間空き教室で彼女にまつわる噂の話をしたことを思い出す。
誤解されやすいだけで、案外彼女は、彼女なりにいろいろと考えているのだろう。授業の質問だって来るし、見た目ほど不真面目でも素行が悪いわけでもない。
「あ、せんせ、今日も放課後空いてるー?」
「ええ、まあ」
あの日から、ミヤと放課後を過ごすのがほとんど日課になっていた。任務のために理由を付けて帰ることもあるが、アイリ自身、ミヤとの時間に少し愛着を持ち始めていた。彼女は他の誰とも違い気兼ねなく声を掛けてくるし、まるで友人に話し掛けるかのようにアイリに接する。それが彼女にとっては不思議と心地よかったのである。
「じゃあ……あ、待って、ミヤ今日空いてなかったぁ」
「そう。じゃあ、また授業で」
ぺこりと軽いお辞儀をして、アイリはミヤの元を去った。
今日も一限から授業だ。そろそろ準備しなければ。アイリはなんだか残念に思う気持ちを振り切るように、仕事へ意識を切り替えた。
三限、いつも通り授業を終えると、今日は珍しく別の生徒から話し掛けられた。
「水上先生、あの、今日の放課後、空いてますか?」
「穂高さん」
眼鏡を掛けた真面目そうな女子生徒は、少し躊躇いながらこう言った。
「あの、今日は夢園さん、用事があるって聞いて。盗み聞きしてすみません」
「いいえ、別に隠そうとしているわけでもないから。話を聞いていたなら知っていると思うけれど、空いていますよ」
「あ、ありがとうございます! たくさん質問させてください」
「もちろん。職員室で待っています」
そう応えれば、穂高はほっとしたような顔をして、「ありがとうございます」ともう一度言った。
いつもと同じ空き教室に、いつもとは違う生徒。アイリは慣れた手付きで机と椅子を動かし、二つの机を向かい合わせにした。
「それで、質問は?」
唐突なアイリの切り出し方に穂高は少し戸惑ったようだったが、やがて意を決したようにこう言った。
「あの、実は私、化学科志望で……水上先生とはそんなに歳も離れていないので、何かアドバイスいただけるかと思って。
授業に関する質問じゃなくて、すみません」
「謝らないで、進路相談も、教師の役目ですから。化学科志望なのね。具体的に大学は決めているの?」
「いえ、まだそこまでは。でも、いくつか目星をつけている場所はあって……」
彼女の相談に真摯に耳を傾け、高校一年生でも出来ることとしていくつかアドバイスをすれば、彼女は目を輝かせて何度も「ありがとうございます」と言った。
礼儀正しくて良い子だな、と思っていると、ふと思い出したように、「あ」と穂高が声を上げた。
「夢園さんも、化学科志望なんでしょうか?」
「え?」
「いえ、あの。夢園さん、他の科目も聞きに行ったりしてますけど、最近は水上先生とよく話しているなと思って。放課後まで質問しに来るなんて、熱心じゃないですか」
「ええと……」
アイリは顎に指を寄せ、考え込むように目線を落とした。
たしかに、よく一緒に放課後を過ごしているが、そういえば、彼女の進路については、何も聞いたことがない。
「私は何も聞いていません、たぶん、あの子にとって私が絡みやすい相手だというだけでしょう」
「そうなんですか?」
「先日、『女の人は怖いけど、私は怖くない』と言っていたので、おそらく。
……でも、そうは言っているけれど、今までまともに友達ができなかっただけだと思うの。気になるのなら、話し掛けてみたらどう?」
ミヤが仲良くなれる生徒がいたらいい。自分は、あくまで臨時教師で、ずっと此処にいられるわけではないのだから。
「……そう、ですね! 頑張って話し掛けてみます」
「それがいいと思います」
頷くと、穂高はまた、「ありがとうございます」と言った。
穂高と別れると、アイリは学校を出て、今日も本部に急いだ。
自分のデスクに戻ると、アイリはせかせかと記録をまとめる。この週末、かの連続殺人事件の情報整理のために会議がある。潜入捜査員であるアイリも、言うまでもなくそれに呼ばれていた。
彼女の記録は基本的にタブレット端末にて行なっているので、会議に参加するときはプロジェクターに映すためのデータ作成や印刷して配る資料が必須なのだ。理系であるアイリに言わせれば、『非合理的で無駄の多い』作業だが、エクソシストの集まるこの班では文明の利器を使いこなせない者も少なくない。皆、悪魔祓いの腕は確かなのだが、と彼女は溜め息を吐いた。
会議当日、会議室に人数分の資料とタブレットを抱えて入ると、すでにホワイトボードには事件現場の写真や地図、被害者の写真などが並べて配置されていた。
「あ、楠神くん、お疲れさま」
「茅原さん。ありがとうございます、そちらもお疲れさまです」
そう返せば、茅原は眉を下げ困ったように笑った。本当に疲れているのだろう、目元をよく見れば、うっすらと隈ができている。
「あの、眠れていないのですか?」
「ああ……うん。そうだね、あの新宿の事件から少し気を病んでしまって。
もしかしたら、もっと早く辿り着けていたら、被害者は亡くならずに済んだのではないかと。……だから贖罪みたいにこうやって仕事をしていないと落ち着かなくてね」
「……茅原さんのせいではありません。相手が悪いのですよ、悪魔による事件としては、日本の歴史上、類を見ないような規模ですから」
「そうだね。分かってはいるよ」
茅原が微笑んだ、その反応に、アイリは気を遣われたのだと分かった。自分には、正しく当たり前のことしか言えない。彼を慰めることすら出来ない自分が不甲斐なかった。
会議で整理されたのは、次のようなことだった。
まず、これまでの被害者の身辺について。遺体の状況について。アイリらがサンプリングした悪魔の残滓の分析結果、そして、アイリが戦闘したR級悪魔の言葉、潜入先の高校での調査報告。
「しかし、楠神が二週間潜入捜査して何も尻尾を掴めないとは。あの高校は無関係なのでは?」
武田が疑問を呈すると、班長が静かにかぶりを振った。
「全生徒数が千人を超えるような学校で、二週間程度では全関係者に接触することは不可能だろう。それに、最新の事件でも、あの高校の生徒との関連性を確認できている」
「えっ」
アイリは思わず声を上げた。そんな話は初耳だ。
「被害者のスマートフォン解析の結果、楠神の受け持っていないクラスの女子生徒が、被害者と関係を持っていたことが判明した。性的暴行や脅しを受けていたらしい。間違いなく恨みはあっただろう。
八件目の被害者の男子高校生は、中学生の頃、件の高校の生徒と同じクラスだった。断定できるほどの証拠は揃っていないが、金の無心などがあったらしいことも分かっている。
あらかた、恨みつらみのある人物を誑かし、殺人教唆することを愉しんでいるのだろう」
やはり、これらの事件が『断罪』ともとれるような情報が出てくる。他の事件についてもそうだ。全く黒い情報が出てこない者もいるが、ほとんどが何かしらの『罪』らしき事情を抱えている。それに不思議なのが、現場や遺体に明らかに人為的な痕跡はなく、悪魔の残滓だけが残っているところだ。殺人教唆して人を堕落に陥れたいのであれば、その『恨みつらみのある人物』の痕跡を残す方が、より彼らの悪趣味に合いそうなものなのに。
「……悪魔は、一体何が目的なのでしょう」
アイリがぽつりと呟くと、茅原がこちらを見て、諭すようにこう答えた。
「悪魔の思考なんて考えるだけ無駄だよ。倫理観も行動原理も、何もかも違う、決して分かり合えない罪深きもの。それが悪魔ってものだろう」
「そう、ですね」
アイリは曖昧に頷いた。こんなにも事件で心を痛めている茅原さんや、悪魔を絶対悪と見做している武田さん、そして警視庁上層部から掛かる全ての責任を負っている班長の前で、言えるはずがない。
――悪魔が、誰かの代わりに、必要悪として動いているのではないか、などとは。
だいたい、仮にそうであったとして、だからどうだというのか。人を殺めることはどんな理由があっても許されない。見つければすぐさま祓わねばならない存在、それがエクソシストにとっての悪魔であり、情を持つことなどあってはならないことだ。
アイリはそう心で言い聞かせて、浮かんだ思考を振り払った。より上級の悪魔を祓い、実績を積んで、本家に迎え入れられて、見下してきた全員を認めさせること、それが自分の最優先事項だ。間違ってはいけない。
それが正しい在り方なのだと、分かっているはずなのに、心は沈んでいく一方だった。
とにかく、今はできることをするしかない、と、アイリは本格的に被害者との関係性を指摘されている生徒や教師の情報を集め始めることを決めた。
勤務し始めて三週目に入り、既にアイリは捜査対象らの高校での立場、当人の雰囲気などを大方把握し始めていた。自分の受け持っていないクラスの生徒にも何かしらの口実で接触する機会を作り、姿や振る舞いを覚える程度のことはできている。しかし、それだけでは捜査にはならない。肝心なのは、対象の人間関係についてである。
これまでも何度か試みようとはしたものの、アイリが関係の構築を得意としていないために、その捜査は難航していた。ミヤに『友達いなさそう』と指摘されたのは、図星どころではない。その目立つ容姿も災いして、何処にいても、彼女は異端な存在であり、特に同調圧力の強い日本の学生のコミュニティに馴染むことはなかった。
「せんせ、また眉間に皺。なんか悩みとかあるのぉ?」
いつの間にかミヤに覗き込まれていたことに気が付き、アイリは驚いて後ずさった。
「あ、ごめんねぇ、びっくりさせちゃったぁ」
人の気配を感じ取ることに関しては人並み以上に得意なはずだ。それなのに、彼女が近づいてきていたことに全く気付かなかった。それほど集中して考え込んでいたのだろうか。
「いえ、謝ることではありません。お気遣いありがとう」
「アイリせんせってやっぱりお堅いなー、もっと打ち解けてくれてもいいのにぃ」
「一応、勤務中ですから」
「ふーん」
ミヤは興味なさげに受け流すと、突然アイリの背後に周り、何も言わずに彼女の長い髪をいじり出した。
「ちょ、何するんですか」
「せんせの髪で三つ編みー」
「や、やめなさい、こら」
アイリは戸惑いながらも、なんだか気恥ずかしくて目を伏せた。もし、これが臨時教師と生徒という間柄でなかったら。ミヤとはもしかしたら、友人になれていたのかもしれない。こうやってくだらないことをして、放課後ももっと長く一緒に過ごして。
……柄にもないことを考えてしまった、とアイリは小さく首を横に振った。「ちょっとぉ、動かないでよぉ」と不満げなミヤから髪を引き離し、アイリは彼女と距離を取った。
「そろそろ授業の準備をしなければいけないので。では」
早口で言って、その場を去る。
立場が違っても、きっと友達になんて、なれなかっただろう。冷酷に、本音では自分のために、悪魔を祓い続けるエクソシストである自分には、孤独がお似合いだ。
捜査対象の人間関係を探るなら、簡単に考えれば直接会話するのが手っ取り早い。しかし、対象と不自然な接触をすれば、悪魔に警戒されるだけだ。この高校に被害者に関係する者が多いということは、悪魔の目が此処にある可能性が高い。
だからアイリは、引き続き観察する道を選んだ。自分が誰とでも仲良くなれるような性格だったなら、もっと上手く立ち回れたのかもしれないが、現状、それは難しいことだった。
まず、被害に遭った男子高校生の元同級生である生徒。彼は学校のヒエラルキーで言えば中の下くらい、クラスではあまり目立たず、いつも同じ二、三人でつるんでいる。どうやらゲームの話で盛り上がっているらしい。教師としては、授業中に勘弁してくれ、と思ったが、聞こえてくる雑談にも情報がある。どんな些細な情報も逃すものかと、アイリは全方位にアンテナを立てて情報収集に励んだ。
そして、それを毎日本部に持ち帰り、余すことなく記録に移す。記憶力はアイリの特技の一つだった。文字に埋め尽くされた文書を一瞥して、笹倉がアイリのデスクの側に立ち止まった。
「うわ、すごい量の記録。これ全部、高校にいる捜査対象の記録ですか」
「ええ。生徒四名、教師二名。記録といっても、ほとんど捜査に関係なさそうな情報ばかりで、八方塞がりだけれど」
「……そうみたいですね」
笹倉の声には落胆の色があった。
「俺らの方でも、高校以外の関係者、特に被害者のご家族や近所の方にお話を伺ってますけど、なかなか。恨みを持たれるような噂が多すぎたり、逆に全く情報が出てこなかったり……」
「……難儀なものね」
「そうですね」
疲弊しきった会話をしていると、普段は別棟で研究をしている分析担当の浜村女史が、慌てた様子で本部に駆け込んできた。
「すみません! 班長はいらっしゃいますか!」
「此処に」
班長が短く応えると、浜村は早足で彼の元へ向かい、タブレット資料を見せた。
「皆さんがサンプリングした悪魔の残滓や下級悪魔に検出された波形が、皆様ご存知のあのニューヨークで起こった悪魔による連続殺人事件の残滓の波形に酷似しています。同一である可能性が高く、また、この波形は世界各国にて何度も検出されており、その共通項も掴めました」
「共通項とは?」
班長の問いかけに、彼女は一息吐いて、重々しく口を開いた。
「すべての事件において、悪魔と共犯した疑いが高いと思われた人々は口を揃えてこう言っています――推定時刻の自分の行動について、何も覚えていない、と」
「それは……」
重苦しい空気が漂う。当然だ、今までしてきた聞き込みも捜査対象の身辺調査も、ほとんど意味がなかったと言われたも同然なのだから。
「SSS級悪魔の仕業で決まりということか」
「ええ。相手が記憶を消せるレベルの悪魔であること、各国の選りすぐりのエクソシストですら煙に撒いた存在であるということです。ただ、三大名家のある西洋圏には被害がありません。つまりあちらも、聖力の強いエクソシストを警戒している。決して誰にも祓えない相手ではないはずです。
……先方を説得できるかは分かりませんが、本家に依頼して優秀な悪魔祓いを派遣してもらうのが最善の道です。我々特例班の手に負える事件ではない。これ以上被害が拡大する前に、素早く手配をするべきでしょう」
その言葉に、アイリは硬直した。我々の手に負える事件ではない、という言葉は、コンプレックスを持つ彼女には、自分が名家のエクソシストには敵わない、と言われているようにしか聞こえなかった。
――名家のエクソシストが派遣される前に、カタを付けなければ。天才などと謳われておきながら、それが出来ない私に、存在意義などない。ましてや、名家のエクソシストに祓われてしまったら……。自分が認められる希望など、もう持てなくなる。
アイリには、班長が皆に向けて掛けた「くれぐれも勝手な行動は慎むように」という言葉は届いていなかった。
その翌日から、アイリは組織には内密で、放課後の全ての時間を使い高校周辺を探索することにした。
被害者に恨みを持つ人物がこの高校に集まっているということは、周辺で不審な動きを確認することができるかもしれない。運が良ければ、悪魔を特定できる現場に遭遇できる可能性だってある。この辺りで人目に着きづらい場所を把握しておくことは、決して無駄にはならないだろう。
何故初めからこうしなかったのだろう、とアイリは溜め息を吐いた。上の指示に従って高校内部を調べるだけでは辿り着ける相手ではなかったのに。初めから相手がSSS級悪魔であることを視野に入れていたのだから、内部だけでなく周辺も調べておくべきだった。
自分の浅はかさに打ちのめされながら、アイリは唇を噛み締めた。私の『足りない』部分とは、そういうところなのかもしれない。一流のエクソシストとして働くには、思慮深さは不可欠だ。特に上級の悪魔にもなれば、能力だけではなく知能も高く、考えて動かなければ太刀打ち出来ない。
「……でも、ここで成果を出せれば……今までの失態も挽回できるはず」
いつまでも満たされないままの承認欲求に、彼女は突き動かされていた。
放課後がしばらく空いていないことを伝えると、ミヤはあっさりと身を引いた。
「そっかぁ。せんせもいろいろあるんだね」
「ええ、まあ。プライベートで少し問題が起きていて、いつ解決するかは分からないのだけど」
「ふーん。大変だね、頑張って」
興味なさげにそう応えたミヤに、アイリは失望感を覚え、それに自分で驚いた。相手は一生徒であり、自分はただの臨時教師。何を期待していたのか、とアイリは己を叱咤した。ミヤが自分から離れられるのなら、その方が彼女にとって良いことは間違いない。
どうせ自分はすぐに此処から消える存在なのだから。自分があの悪魔を祓えても祓えなくても、名家のエクソシストが派遣されて事件は終結するだろう。
頭ではそう分かっているのに、感情は余計に絡まっていくばかりだった。
見回りを始めて数日が経ったある週末。夕方まで組織の研究室にいたアイリは白衣を着たまま、その日も人通りの少ない路地を歩いていた。
不意に、通りの向こう側から、聴き慣れた声が聞こえてきた。
「あは、穂高さんおもしろーい」
「もう! そんなことないです!」
壁に隠れて覗きこめば、そこにはミヤと、先日相談に来た穂高が二人で歩いている。何の話をしているかは分からないが、何やら楽しそうだ。
「……良かった」
無意識にそんな一言が零れた。もう、ミヤは一人ではないのだ。これなら、いつ自分がいなくなっても大丈夫だろう。
しかし、そろそろ日も暮れてくる。一応、早めに帰るように注意はしておこう、とアイリはミヤたちの方に近づいていった。
二人はどんどん人の少ない方へと歩いていく。この辺りは治安もあまり良くない。不審に思いながら、アイリが二人に声を掛けようとしたその時――二人の目の前に、一人の少女が現れた。
「……樋口さん」
明らかに穂高は動揺していた。樋口、と呼ばれた派手な少女は、不愉快そうに顔を歪め、大声で怒鳴り散らした。
「サイアク。陰キャ穂高じゃん。何でウチらの縄張りほっつき歩いてんだよ。きめぇんだよ。死ね!」
その声に、当事者でないアイリも硬直してしまう。それほどの怒気と嫌悪感が込められた理不尽な言葉に、穂高は怯え、震えているようだった。
「わあ、穂高さん大丈夫ぅ? だめじゃーん、そんなひどいこと言っちゃ」
ミヤは穂高の肩を抱きながら、何故か愉しげに笑った。
「ひどいこと言ったらね、自分に返ってくるんだよぉ」
「は、何こいつ、キモ」
「あはは、そんなこと言ってられるのも、今のうちだよ。……ミヤ、知っちゃったんだぁ、あなた、穂高さんにとってもひどいことしたんでしょ? パシリに盗みに金の無心? あとなんだっけぇ、閉じ込められたり水かけられたりもしたんだよね?」
「……なんで夢園さんが、それを」
呆然とした穂高の呟きを無視して、ミヤは朗々と語り続ける。だんだん暗くなっていく街の中で、一際その笑顔が不気味に際立っていた。
「挙げ句の果て、不登校にまで追いやったんでしょ? わあ、すっごーい。悪魔みたい。……本物の悪魔には、及ばないけどね?」
そう言って、ミヤは青ざめた樋口の頬に手を当てる。ふら、と体のバランスを崩し、樋口はばたりと倒れた。
どうして、ミヤが、そんなことを。
いや、違う。目を背けていたのは、私の方だ。どうして、ミヤを疑わなかった? 頻繁な接触を、なぜ不審に思わなかった? ……情が湧いて、彼女が敵である可能性を無意識に除外していたことに気づいて、アイリの呼吸は浅くなった。
その時、ミヤがこちらを振り向いた。その瞳がアイリを捉え、妖しい紅が光る。
「あれぇ、せんせ、どうしてここにいるの?」
自分に投げかけられたその言葉を無視して、アイリは隠し持っていた拳銃を白衣の内側から取り出し、無言でミヤに向ける。先程の所業といい、瞳の色の変化といい、人ならざるものである証を見てしまった以上、彼女は自分の討伐対象でしかない。
「あなたこそ。こんな場所で、何をしようとしているの?」
「わかってるくせに。それに、その拳銃。敵意むき出しじゃん。いいよ。ヤレるもんならヤってみなよ」
「私に討伐できない悪魔はいない。貴様も例外ではない」
「やだぁ、つい昨日まで、ミヤ、って呼んでくれたのに。あたしが悪魔ってわかった瞬間それ? まあいいや、久々に楽しくなりそうだし。楽しもうね、『楠神アイリ』」
アイリは目を見開いた。拳銃に込めていた力が緩む。
「どうして実の名を知っている?」
「ばかだなぁ。有名人だよ、あんた。あんな適当な偽名で隠し切れてるとでも思った?」
そう言いながら、ミヤは素早く距離を詰め、手の指を大きく変形させた鍵爪でアイリの脚を大きく引っ掻いた。ザッ、と大きく風を切る音が響き、ストッキングが破れ、大きな傷から血が滲み出す。
「……っ!」
アイリはその鋭い痛みに思わず歯を食いしばった。
「水上先生っ……一体どうなってるんですか」
「穂高さんは早く逃げて。私はミヤを追わなきゃいけないから」
反応できなかった。明らかに今まで対峙した悪魔とは格が違う。傷を庇いながら、アイリは路地を抜けて逃げていくミヤを追った。
走りながらスマホを取り出して、アイリは本部に電話をかけた。
「こちら楠神。標的による所業を確認、位置情報を送信します。私は逃げた悪魔を追います」
『ちょ、アイリさん! どういうことですか!』
「被害者一名、生死不明。状況確認の方、よろしくお願いします」
笹倉が何か言おうとしているのを無視して、アイリは電話を切り、スマホの電源も落とした。
自分が冷静ではないことはわかっている。それでも、アイリは一人で行かせて欲しかった。相手があのミヤだと知ってしまった以上、他の人間に殺されたくはない。やるのなら、この手で。自分でも何故だか理解できないまま、そんな強い衝動に突き動かされていた。