ピンクの指輪
12月、クリスマスも目前に迫ったころ、指輪を買った。ピンクゴールドの地金に、しずく型のピンクトルマリンがついた、ごく小さな指輪である。
この1年、コロナ禍で、家にいることを余儀なくされた。毎日、家と職場とスーパーの往復。仕事と家事を、ひたすらに繰り返す。当然、例年に比べて、使うお金ははるかに少ない。それを「つまらない一年だった」と言いたくなくて、ひとつ大きな買い物をしようと思い立った。
子供のころ、母のドレッサーを開けて、アクセサリーを覗いてみるのが好きだった。若かりし頃の婚約指輪や、誕生日に父から贈られたオパールの指輪、冠婚葬祭用の真珠のネックレス。子供用の玩具セットのアクセサリーも好きだった。プラスチックのサファイアやルビーを指に嵌めて、太陽に透かしてみる。子供の目にそれはきらめいて、いつか大きくなったら、本物をつけるんだ、と思っていたこともある。
「本物」を初めて手にしたのは、二十歳の時だ。成人祝いに、母からゴールドのネックレスを贈られた。小さな鍵のペンダントトップに、小粒のダイヤが散りばめられている。正直、その時は途方に暮れた。どうして、こんなに派手なものをくれたのだろう。絶対に似合わない。当時は、容姿に自信がなかったこともあって、それは引き出しの奥深くにしまわれたままになった。
二十代、私は少しずつ、ファッションに気を遣うようになった。メイクを覚えたのを皮切りに、好きな洋服のブランドもでき、母が時々くれる小さなジュエリーを身につけるようになった。でも、それはあくまでもアクセサリーであって、特別に私の気を引くものではなかった。二十代の私には、ひとつのポリシーがあった。それは、「物が主役になるファッションは避ける」。主張しすぎるブランド物や、派手なものは身に着けない。自分という素材を、最大限に引き立たせてくれるものを選ぶ。主役は、私自身。若い私にとって、ジュエリーはいささか目立ちすぎる脇役だったのだ。
そんな私に変化が訪れたのは、三十代も後半に入ってからである。鏡を見て、ふと気づく。目尻の皺が増え、頬のたるみが目につく。顔色も、明らかにくすんでいる。歳は取るものだなあ、と思い、そのこと自体は受け容れたものの、今までのアクセサリーが地味に見え始めた。海外では、年老いた肌を引き立てるために、ジュエリーを身に着けるのだと、本で読んだことがある。今なら、似合うかもしれない。成人祝いのゴールドのネックレスを、私は引き出しから出してみた。
それは、歳を取り始めた私の顔に、すんなりと馴染んだ。若いころだったら、きっとけばけばしく映っただろう。こうやって、似合うものが変わっていくのだ。これからはもっと、自分に華やぎを与えてくれるものを選ぼう。ポリシーを変える時が来た、と私は悟った。
その頃から、地元のショッピングモールの宝飾コーナーに足を運ぶようになった。どこにでもある、ごく安価なチェーン店。でも、小さな石のきらめきが、一瞬日常を忘れさせてくれる。買わなくても、見ているだけで、ささやかな癒しを与えてもらえる。そして、初めて自分のお金で、ダイヤのピアスを一対買った。
その時はまだ、指輪という発想はなかった。宝飾店の指輪は、眺めるためのもので、身につけるものではない。いつも結婚指輪をしているし、必要ない。そう思っていたのに、2020年を締めくくる買い物をと思った時、私の頭に真っ先に浮かんだのは、ファッションリングだった。
他の誰の目にも、触れないもの。純粋に、自分自身のためのもの。
そういうものを買ってみようか、と、不意に思ったのである。
「好きなものを身に着けるか、似合うものを身に着けるか」は、永遠に選択の分かれるところだろう。私はいつも、前者を取ってきた。でも、質素に暮らしてきた1年だもの。最後の最後に、生活に役立たないものを買おう。享楽的なお買い物をしてやろう。そんな風に思ったのだ。
宝飾店に行き、私は指輪を物色し始めた。正直、わくわくした。お買い物という行為のときめきを、久しぶりに思い出していた。狭い店内の小さな品々が、ひとつひとつ輝きを放っていた。アクアマリンやサファイア、ルビーにガーネット。誕生石という手もあるが、私はエメラルドがそれほど好きではない。そして、店内でもっとも私の目を引いたのが、ピンクトルマリンの指輪だった。
ピンクという色も、享楽的だ。若い女の子の好きな色、というイメージも強い。年齢を意識すると、少しためらわれる。でも、いいんだ。だって、今回は享楽的なお買い物だもの。
私は、ピンクトルマリンの指輪を買った。それは誂えたように、私の指にぴったりと嵌まった。
以来、私はその指輪を、右手の薬指につけて出勤している。仕事が立て込んでくると、一息ついて指の付け根を眺める。そこにピンクの石はキラキラしていて、他の誰でもなく、私だけのために光ってくれる。ファッションとして、人に見られるものとして、ジュエリーを買ってみようと思ったのが最初だった。でも、今、自己満足のために買ったものが、こんなにも私の心を満たしてくれる。子供のころの、飽くことなく母のアクセサリーを眺めていた、純粋な憧れを思い出す。
ピンクトルマリンの指輪は、確実に私のお買い物観を変えた。どうしても、生活に役立たないものに惹かれる自分。年相応ではない、かわいらしいものに惹かれてしまう自分。そんな自分を、一気に全肯定してくれた。だって、好きなんだもの。子供のように唇を尖らせて、そう言いたい。似合うものを身につけることも、もちろん楽しい。でも、誰のためでもなく、自分のために身につけるものがあってもいい。ジュエリーは、その両方を満たしてくれる。
コロナ禍で観劇や旅行という楽しみが奪われる中、今までとは違う消費の矛先を見つけた。新しい生活様式の中で、お金の使い方も変わっていく。刻一刻と、歳だって取っていく。それでも、人生を楽しむことはできる。ピンクトルマリンのきらめきを眺めるたび、そんな風に思っている。