ワイマール共和国史 (加筆中)
敗戦
1918年10月、連合国との講和を目的にバーデン大公子マクシミリアン内閣が成立。11月にはキール軍港の水兵が反乱を起こし、ドイツ革命が始まった。9日にはマクシミリアンが皇帝の退位を宣言し、首相をエーベルトに譲った。同日にはシャイデマンが独断で共和制の樹立を宣言した。
スパルタクス団蜂起
ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトらが創設したスパルタクス団にカール・ラデックが加わり、ドイツ共産党が結成された。1月には蜂起したが、エーベルトによって最高指揮官を与えられたグスタフ・ノスケ国防省率いる義勇軍によって鎮圧され、リープクネヒトとルクセンブルクも虐殺された。
1月19日には国民議会選挙が行われ、社会民主党・中央党・民主党のヴァイマル連合による連合政府が成立し、シャイデマンを首相に指名した。4月にはパリ講和会議での講和条約策定が完了し、ドイツ代表団に提示された。6月、議会は講和条約を受諾したが、シャイデマンは絶対反対だったため辞任し、グスタフ・バウアーが新首相に選ばれた。新内閣は講和条約の処理を行い、ヘルマン・ミュラー外相を全権としてヴェルサイユ条約を締結した。
バイエルン・レーテ共和国
1918年、労働者・兵士レーテの会合で王制廃止とバイエルンの共和国化を決定した。独立社会民主党のクルト・アイスナーはバイエルンの暫定首相に選出された。左右派両方から批判され、1919年1月には選挙で独立社会民主党は惨敗し、辞任表明に向かう途中でトゥーレ協会の学生と右翼将校に銃撃され、死亡した。4月には共産党によってレーテ共和国が樹立されるが、5月初頭にはヴァイマル共和国軍やエアハルト海兵旅団、エップ義勇軍などによって鎮圧された。
ナチ党結成
1919年にカール・マイア大尉によってコマンド4からドイツ労働者党に加入していたヒトラーは1920年2月24日にミュンヘンのホーフブロイハウスで大集会を開き、国民社会主義ドイツ労働者党に党名変更するとともに25か条党綱領を発表した。
カップ一揆
1920年ヴェルサイユ条約の発効によって存立が危うくなった義勇軍は、大戦中にルーデンドルフの働きかけで形成されたドイツ祖国党のヴォルフガング・カップを担ぎ、君主制復活も目論むクーデタを敢行した。政府はベルリンからシュトゥットガルトに逃亡し、一揆はベルリンに入ったが政府の呼びかけたゼネストにより頓挫した。ゼネストを主導した全ドイツ労働組合同盟は責任者の処罰を求めたため、バウアー政権は倒れ、ヘルマン・ミュラーが首相となった。しかし、同年6月の憲法制定会議を通常の共和国議会に置き換えるための選挙で与党は絶対多数を喪失してミュラーは辞職し、後任には中央党のフェーレンバッハが就いた。内閣は中央党・民主党・人民党の連立となった。バイエルンでは無血クーデタによって社会民主党政権が倒れ、グスタフ・リッター・フォン・カール政権が誕生した。
SAと反革命義勇軍
エップ義勇軍で中心的役割を果たしていたレームはSA、反革命義勇軍に武器を流していた。ヒトラーはエアハルト旅団からSAへの資金援助・軍事訓練を受けた。彼らはテロや左派の催事妨害などを行っており、1922年6月には首相ヴィルトと共に賠償を履行しようとしていた外相ラーテナウがエアハルト旅団傘下のテロ組織コンスル団によって爆弾テロで暗殺された。
賠償問題
1921年3月、ロンドン会議において対独賠償が決定し、フェーレンバッハは受諾不可能として辞職し、代わって同じく中央党のヨーゼフ・ヴィルトが受諾した。ヴィルトはヴァイマル連合での組閣を試み、社民党は政権に復帰したものの、ヴァイマル連合の主役は中央党に移っていた。
独立社会民主党の分裂
独立社会民主党は右派と左派の間に開きがあったが、右派であった首脳部は1919年1月には党首ハーゼは右翼テロで暗殺され、ベルンシュタインは1月蜂起直後に離脱したため、ヒルファーディング・ディットマン・カウツキーらを残すのみとなっていた。1920年8月、コミンテルン第2回大会に独立社会民主党の代表も出席していたが、この大会でコミンテルン加入のための21カ条の条件が採択された。この条件でカウツキー・ヒルファーディングを放逐し、共産党と無条件合同することを求められた。この結果、全党員80万のうち30万が共産党に移った。これにより党員5万程度であった共産党は組織労働者の中に地盤を得ることができた。
マンスフェルト蜂起
コミンテルンは前年のハンガリー革命の指導者クン=ベーラをドイツに送り込み、1921年3月マンスフェルトにて蜂起させた。この蜂起は数日のうちに国防軍に鎮圧された。この暴挙は先の共産党指導者パウル=レヴィに批判され、コミンテルン第3回大会でも批判された。
ラパロ条約
1922年のジェノヴァ会議ではソ連が国際会議に初めて参加し、連合国は帝政期の債務を認めることを条件にソ連を承認する提案を行ったが、ソ連は対ソ干渉による損害賠償を求めた。これに対し、連合国はヴェルサイユ条約で留保されていたソ連がドイツに賠償を求める権利を認めさせる代わりに債務を受け入れさせようとした。これを受けてソ連はドイツにラパロでの会談を要求し、ラパロ条約が締結された。
ラーテナウの暗殺
ヴィルトやラーテナウら履行政策の実施者は右翼からは激しい攻撃を浴びていたが、ラパロ条約の締結によってそれは更に強まった。殊に矢面に立たされたのはラーテナウであり、彼は1922年テロによって惨殺された。これに対し、ヴィルト政権は共和国保護法を制定し、共和国の存立を脅かす団体の取り締まりを行い、多くの右翼団体が禁止され、テロ行為はひとまず収束した。
ヴィルトの退陣
1922年夏、マルクが暴落したため、ヴィルト政権は支払い猶予を求めたが、フランスに拒否された。さらに党首シュトレーゼマンが右派勢力を抑え、共和国の安定を志していた人民党の政府への加入をエーベルトが画策し、ヴィルトも賛成したものの社会民主党が人民党との連立を拒否したため、1922年11月退陣を余儀なくされた。
ルール占領
続くクーノ内閣は賠償の支払いは不可能としてモラトリアムを要求したが容れられず、1923年1月フランスはイギリスの反対を押し切り、ベルギーとともにルール地方を占領し、資産や物資を差し押さえた。これに対し、政府は消極的抵抗を訴え、国民の支持を得た。しかし、ドイツ最大の工業地帯であるルールが活動を停止したことの経済に対するダメージは大きく、ハイパーインフレーションが進行した。
ハイパーインフレーション
ハイパーインフレーションは勤労者の実質的賃金を引き下げる方向に働いた。このことは製品の製造コストを低下させ、資本家には有利に働いた。中産階級はそれまでの貯蓄が無価値なものとなり、大きな打撃を受けた。1923年夏にはクーノ内閣は完全に行き詰まり、人民党のシュトレーゼマンのもとで共産党・国家人民党を除く全党派の支持を受けた内閣が成立した。シュトレーゼマンは消極抵抗を打ち切り、金本位制を前提としつつひとまずドイツの地代請求権を基礎とするレンテンマルクを発行し、従来の1兆マルクが1レンテンマルクと交換された。
バイエルン
グスタフ・フォン・カールはバイエルンの独立を目指して活動し、ベルリン中央政府によって首相の地位を追われたが、州総督に任じられ、バイエルンにおいて独裁権を握った。カールはミュンヘン駐在の第7軍司令官オットー・フォン・ロッソ少将と州警察長官のハンス・フォン・ザイサー大佐と共に三頭政治体制をとった。これは違法行為であったが、国防軍を独立した地位とし、共和国打倒を企てていた陸軍総司令官ゼークトにバイエルン征討を行わせることはできず、シュトレーゼマン政権は干渉できなかった。バイエルンでは他の地方では禁止された右翼団体が活動を許されており、ナチスはミュンヘンの実業家から寄付を受けたり、レームを通じて突撃隊の武装化を進め、勢力を伸ばした。
ミュンヘン一揆
カール・ロッソ・ザイサーの三頭体制は君主制復活とバイエルンの権益強化を狙い、クーデタを計画していた。ヒトラーは自身の闘争同盟抜きのクーデタを望まなかったため、1923年11月8日に彼らの先手を取りミュンヘン一揆を起こした。ヒトラーはビュルガーブロイケラーにて演説中だった3人を捕らえ、協力するよう説得した。当初3人は応じなかったが、到着したルーデンドルフの説得を受け承諾した。しかし、反乱軍と工兵隊の衝突を受けて、ヒトラーがビュルガーブロイケラーを離れるとルーデンドルフが3人を解放してしまい、一揆は鎮圧された。
共産党の革命計画
ミュンヘン一揆と同じ頃、ザクセン・テューリンゲンでは共産党による権力掌握という事件が起きた。これまでコミンテルンはドイツ全体を反西欧闘争に駆り立てるため右翼と手を組むことも辞さず、蜂起を抑えていた。しかし、ドイツがルールでの抵抗をやめ、英仏と協力することが明らかになり、1923年秋に革命を起こす方針に転換する。政権に共産党が参画し、赤色軍事組織の結成が急がれた。これに対し、ベルリン政府は国防軍によって直ちに制裁を行い、政権は崩壊した。これに対し、社会民主党は同様の措置をバイエルンンに対しても取るようシュトレーゼマンに要求するも叶わず政権を離脱した。これによりシュトレーゼマン内閣は不安定化し、11月末辞職した。
シュトレーゼマン外交
一揆後
本来、反逆罪を犯した外国人は国外追放されることとなっていたが、ヒトラーの強制送還は行われなかった。さらにヒトラーは共和国の国事裁判でなく、ミュンヘンの特別法廷「国民裁判所」で裁かれることとなった。ルーデンドルフは無罪、ヒトラーには反逆罪としては最も軽い5年の要塞禁錮、1年後品行良好であれば執行猶予される特例判決が下された。造幣局での資金強奪は強盗ではなく単なる没収行為とされ、一揆時点で執行猶予中であったことも無視されるなど不当に軽い量刑であった。バイエルン警察は釈放後のオーストリア強制送還を図ったが、オーストリア政府に国籍を保持しているか不明であることを理由に拒否された。
ナチスの躍進
党北部指導者グレゴリー・シュトラッサーの側近であったハインリヒ・ヒムラーが1928年12月に提案した催事を時間的・地域的に集中して行い、他政党を出し抜く戦術を考案した。ここにはSAとヒトラー・ユーゲントも含まれており、党演説学校を設立しての演説家養成も行われた。同年にナチ党は都市から農村に重点を移し、支持を集めるようになる。
ヤング案
1929年にヤング案が提示されると、右派は共同キャンペーンでヤング案に反対した。反対運動の中でナチ党は最も激しい政府攻撃を行い、弱小だった存在から右派の中で存在感を高めることに成功した。ヤング案反対運動そのものは投票で惨敗した。