日本共産党史 (戦前)
草創期
1901年社会民主党が結成されるが、治安警察法によって結社禁止処分。03年に幸徳秋水や堺利彦による平民社創設、06年に片山潜、堺利彦による日本社会党の結成と翌年の結社禁止処分を経て10年には大逆事件が起き、日本の社会主義者は弾圧される。
一次大戦後、日本労働総同盟(総同盟)、日本農民組合、東大新人会、早大民人同盟会・建設者同盟などが結成される。新人会は吉野作造の民本主義の影響を受けて結成され、「ヴ・ナロード」を唱え普通選挙運動などに参加した。民人同盟会は新人会に影響された高津正道・高瀬清らが結成した。建設者同盟は民人同盟会を脱退したメンバーによって結成されている。
1920年、社会主義者が集まり日本社会主義同盟が結成されるが、翌年結社禁止処分。日本社会主義同盟は社会主義者が大同団結した点で画期的であったが、サンディカリスト・アナーキストなどの寄り合い世帯であった。
1917年ロシア革命によって社会主義の再生は加速するが、国内ではアナルコ・サンディカリズムが最盛期であった。
コミンテルンの実質的な創立大会である1920年の第2回大会で21カ条の加盟条件を採択し、社会民主主義者との絶縁・民主集中制・共産党への党名変更などが求められた。この大会では「民族・植民地問題についてのテーゼ」も決定され、アジアに強い関心が向けられた。ドイツ革命が失敗に終わるとこの傾向はより強まる。
1920年コミンテルンは東アジア書記局を上海に設置し、ボイチンスキーが派遣される。ボイチンスキーが各国共産党設立に尽力し、1921年には陳独秀や李大釗を中心に中国共産党が設立される。
また、アメリカを経由する西回りルートとしては片山潜の在米日本人社会主義者団があり、近藤栄蔵らが日本などに派遣された。片山潜は1922年にソ連に移り、コミンテルン執行委員会幹部会員に選ばれる。
第1次共産党
1921年、近藤栄蔵の提案によって堺利彦・山川均・近藤栄蔵・荒畑寒村・高津正道・橋浦時雄・近藤憲二が集まり、日本共産党準備委員会が結成された。近藤栄蔵は上海にわたり、コミンテルンから活動資金を受け取り帰国するが、下関にて活動資金で遊興している所を検挙された。(下関遊興事件)その結果、資金の受け取りを準備委員会に拒否されたため、高津正道・高瀬清と日本共産党と称して活動を始めたが、陸軍宿舎へのビラ送付などを行い、一斉検挙されて壊滅した。(暁民共産党事件)
1922年、高瀬の部屋に山川均・堺利彦・近藤栄蔵・高瀬清・橋浦時雄・吉川守圀・浦田武雄・渡辺満三が集まり、日本共産党が正式に発足した。日本では前身となる社会民主主義政党が不在であり、政府からの弾圧も受けていたため、共産党は大衆的基盤を持たない問題を持っていた。
1923年、佐野学が警察のスパイに機密文書を渡したことを発端として主要党員が一斉検挙を受ける。(第1次共産党事件)加えて、同年の関東大震災の混乱の中で共産主義者が虐殺される甘粕事件・亀戸事件が起きたことで、解党論が高まり、第1次共産党は解散する。
その後、コミンテルンからの共産党再建要求を受けてビューローが発足し、福本和夫による福本イズムの影響下で第2次共産党が結成される。福本イズムは党内の不純分子を排除し、先鋭な前衛党による闘争を主張していたのに対して、山川均は合法的無産政党を結成して大衆運動との結合を重視する山川イズムを唱えて対立した。
第2次共産党
福本イズムはコミンテルン駐日代表のヤンソンから批判され、福本や徳田球一をモスクワに派遣するも大衆的組織建設を考えるコミンテルンに受け入れられず、福本は自己批判し、徳田は委員長を辞任する。一方、山川は労農を創刊し、労農派と呼ばれることとなる。コミンテルンはスターリン・ジノヴィエフ・カーメネフのトロイカ(右派)とトロツキー(左派)の政争の場となっており、左派の立場を取る福本イズムは認められなかった。
日本共産党は綱領の執筆をコミンテルンに依頼し、ブハーリンによって1927年テーゼが起草される。1927年テーゼでは君主制打倒や農地改革などブルジョア民主主義革命を経て急速に社会主義革命に転じるという二段階革命論を採用し、山川の解党論・福本のセクト主義双方を批判した。
この時期の共産党は組織的にも理論的水準においても未成熟であり、コミンテルンからの指令に盲従していた。当時は連絡に非常に長い時間を要した上、日本共産党からの報告は党組織の規模などについて露骨な水増しが行われており、コミンテルンは実情を正しく認識できぬまま指令を下していたため、共産党は日本の実情に沿わない方針を取り続けることとなった。
第2次共産党の壊滅
1928年、初の男子普通選挙において労農党から多数の共産党員が出馬した。その目的は議会への参加ではなく宣伝活動にあった。過激なスローガンを掲げて公然と活動した結果、治安維持法による弾圧を受け、全国で一斉検挙が行われた。(3・15事件)既に潜伏していた渡辺政之輔、鍋山貞親、佐野学、市川正一は逮捕を免れた。労働農民党・日本労働組合評議会(評議会)・無産青年同盟は幹部の殆どが共産党員であることから解散させられ、共産党は大衆との接点を失った。評議会の後身として日本労働組合全国協議会(全協)が結成されるも、非合法状態に置かれた。3・15事件の後、治安維持法は強化され、最高刑が死刑に引き上げられ、目的遂行罪の新設によって党員でないシンパも処罰できるようになった。また、特高警察や思想検事の拡充も進められた。
3・15事件の後も主要メンバーやアジトはまだ残っていたが、活動を再開した矢先に中尾勝男が逮捕され、党員名簿が押収された。その10日後には中央事務局の門屋博・浅野晃が逮捕されている。押収した党員名簿を元に手配書が作られ、共産党は打撃を受ける。 8月には中間検挙によって福本和夫・袴田里見・宮原省久・岩田義道が逮捕される。党再建のため、渡辺と鍋山はコミンテルンから上海に来るよう要請され、三田村四郎と国領五一郎に任せて上海に向かったが、10月には国領が逮捕され、渡辺は台湾の基隆で警察に追われ自決する。この頃、市川正一がコミンテルン第6回大会から帰国し、高橋貞樹・真庭末吉・砂間一良らで中央事務局を構成し再建を図るも、1929年には菊池克己の逮捕から砂間一良・真庭末吉が逮捕され、組織・活動の全容が警察に露呈したことで、再び共産党の全国的な一斉検挙が行われた。(4・16事件)4・16事件でも佐野学・鍋山貞親・三田村四郎・市川正一ら最高幹部は逮捕されていなかったが、4月末には佐野学を除いて逮捕される。佐野学は市川を騙る警察に誘い出され、逮捕されることとなる。ここに第2次共産党の幹部殆どが入獄したことになり、共産党は壊滅した。
武装共産党
経験豊富な幹部を失った共産党は田中清玄・佐野博を中心に再建を始める。 武装メーデー事件など警察官殺傷事件を起こし、武装共産党と呼ばれる。この方針はコミンテルンが1928年、社会民主主義に対する闘争方針を決議し、1929年にはブハーリンを幹部会から除籍するなど左傾化したことに影響を受けたものである。1929年には3・15事件で検挙された全中央事務局長・水野成夫は「日本共産党脱党に際して党員諸君に」を発表し、日本共産党がコミンテルンに盲従し、天皇制廃止・原理主義的な土地没収など日本の情勢から乖離した方針を取り、大衆から孤立していることを批判した。水野と賛同者は日本共産党労働者派を形成するも、党中央には解党派とされ除名された。ブハーリンによって起草された1927年テーゼの見直しが進められ、東方諸国書記局で作成された1段階の社会主義革命論にブルジョワ民主主義的課題が含まれるとの1931年テーゼのもとで活動するため、クートベに留学していた風間丈吉が帰国するも武装共産党は既に壊滅していた。
非常時共産党
風間丈吉は飯塚盈延と合流し、活動を開始する。1931年に満州事変が勃発し、日本が準戦時下体制に入ったことから非常時共産党と呼ばれることとなる。共産党は日本軍の即時撤退を訴え、弾圧された。シンパも多数検挙され、カンパが枯渇し、赤色ギャング事件など非合法手段による資金の獲得を行うようになる。コミンテルンでは1931年テーゼの社会主義革命論は否定され、1927年テーゼで規定された革命の性格を維持することが決定されており、1932年テーゼが採用された。
社会ファシズム論
1929年、コミンテルンは社会民主主義をファシズムの1種とみなす社会ファシズム論を正式に採用した。大衆闘争による議会の破壊を訴え、内部から破壊を行うために議会に参加する革命的議会主義を掲げた。1932年テーゼも社会ファシズム論の立場を取っている。1932年テーゼ採択以前の1928年には既に合法無産政党を否定し、労働農民党再建の妨害を行っている。
貧弱な党組織にも関わらず大衆団体の指導部を支配下に置くことで影響力を持っていたが、共産党によって利用され天皇制打倒を掲げた全協の崩壊などを招いた。
共産党の壊滅
1930年代に入ると、拷問とスパイによる弾圧が強まる。武装共産党の壊滅を受けてクートベから帰国した風間丈吉に同じくクートベから帰国し転向していた飯塚が接触し、実質的に飯塚が党組織を掌握する形で党の再建が行われたが,彼はMと呼ばれるスパイであり,彼の手引きにより地方幹部が一斉検挙され,共産党は大打撃を被った.(熱海事件)また、獄中での転向も相次ぎ、獄内中央委員では徳田・志賀など4人を除いて全員が転向した。これらによって共産党は疑心暗鬼に陥り、袴田里見が大泉・小畑をスパイと疑い宮本を責任者とした審問を行った結果、小畑が死亡するスパイ審問事件を起こし、宮本らも逮捕される。袴田が唯一残った中央委員となるが、袴田をスパイと疑った残存組織によって「多数派」が形成される。野坂によって「多数派」は排除されるが、袴田も逮捕される。
反ファシズム人民戦線
コミンテルンは1935年の第7回大会においてディミトロフ書記長のもとで反ファシズム人民戦線戦術を採用した。社会ファシズム論から大きく転換し、社会民主主義者、更にはブルジョア自由主義者との共闘を図ったのである。これを受けてスペインとフランスでは相次いで人民戦線内閣が樹立された。日本に向けては野坂が山本懸蔵と共に「日本の共産主義者への手紙」を執筆した。野坂は3・15事件で検挙された後釈放され、ソ連に渡っていた。1940年にはコミンテルンから中国共産党に派遣され延安に入り、在華日本共産主義者同盟・日本人解放同盟を組織する。
獄中生活
治安維持法はより強化され、転向者を監視する保護観察、非転向者を隔離する予防拘禁が導入される。これによって徳田や志賀などの非転向者は予防拘禁所に隔離される。
敗戦と日本共産党再建
終戦時、日本共産党の非転向有力者には網走刑務所の宮本顕治、仙台刑務所の袴田里見・春日庄二郎、豊多摩刑務所の神山茂夫・中西功などがいたが、比較的自由な予防拘禁所で入念な準備を行った徳田・志賀が主導権を握った。再建された共産党は32年テーゼ以来の天皇制廃止・社会民主主義打撃を掲げていたが、これは長年獄中にあった徳田が従来の方針をアップデートできなかったこと、連合軍を味方としてブルジョア民主主義革命を実行する中で実現可能と考えていたことによる。この頃の共産党は連合軍を解放軍として歓迎する方針を取っていた。野坂参三が延安から帰国し、「天皇制廃止とは制度としての問題であり、皇室存続の問題ではない」と述べ、日本共産党は天皇制廃止を絶対の条件から外す。
トロイカ体制
1946年第5回大会にて中央委員が7名から20名に増員され、これ以降は政治局と書記局を中心とする党運営が行われるが、書記長の徳田に野坂と志賀を加えたトロイカが両方を兼務し、主導権を握った。また、同大会でブルジョア民主主義革命を平和的かつ民主主義的方法によって遂行する方針を明確化した。
日本国憲法への反対
1946年、吉田政権下で憲法改正草案要綱がGHQ民政局での草案作成、水面下での協議を経て発表される。これに対し、共産党のみが反対を表明した。人民の代表による起草でない欽定憲法であり、人民主権が明記されず第1条に天皇の地位と機能を規定し天皇を象徴として神聖視している、参議院は貴族院の変形に過ぎないなどと指摘し、天皇制廃止、人権主権の明記、一院制採用を主張した。さらに一切の戦争放棄にも反対し、防衛戦争を肯定した。共産党の憲法草案では人民主権を担う唯一の国会に権力を集中することで人民主権を実現することとしており、二院制や三権分立を否定した。
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