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仕様もない話
私は0歳から13歳までの間をアパートの2階で暮らしていた。
私と妹が楽しくなって一歩、走ろうと足を踏み出した瞬間下の階から大きな音がした。
ガンッ
先ほどまでの楽しい気持ちはシュルシュルと萎んでいった。お母さんが「走っちゃダメだって言ったでしょ」という声にごめんなさいと返す。わかってるよ、私たちおうちで走っちゃいけないの。
他にもいけないことはたくさんある。おもちゃはぬいぐるみ以外落としちゃダメ。ぬいぐるみは音がしないから大丈夫。あとくすぐり合うのもダメ。暴れて大きな音が出ちゃうから。でも一番イヤなのはトイレのドアを最後まで静かに閉めること。怖くて早くリビングの、みんなのところに帰りたくて仕方なくても私は泣きそうになりながらドアを最後まで静かに閉めなきゃいけない。もちろんリビングのドアも、玄関のドアもそう。特に玄関のドアは重たくてそのまま閉めようとすると大きな音が出る。この前うっかり手を放してしまって慌てて止めようと思ったら指を挟んだ。私の指は先生の巻いた湿布とテーピングでぐるぐる巻きだ。オクサンはドアをバンッと閉めるのにヘンだと思う。他にもダメなことはいっぱいある。
全部まとめると「音は立てるな」ってこと。
ここ最近はずっと妹とリビングテーブルの下で遊んでいる。ここなら走ったりしないから。私と妹はお母さんに内緒でテーブルの下にお絵かきをしている。油性マジック。そして飽きたら私は覚えている絵本や歌を妹に聞かせる。それにも飽きたらふたりでずっと下の階の音を聞いている。結構うるさい。なのに私たちが音を立てると怒るんだ。バタバタ走ってる音がする。私たちはもう何か月のおうちで走ってないのに。ムカムカしてきて床を殴った。すぐに大きなガンッという音が返ってきた。妹はきょとんとした顔でこちらを見ている。
お母さんがこっちにやってきてどうしたのと聞くので「頭ぶつけちゃった」と嘘を吐いた。幼稚園の先生はダメだって言ってた。でも悪いことをしたってどうしても思えなかった。妹が後から近づいてきてナイショと言った。そう、ナイショ。
小学生になった。自分の首から下がる鍵が少し誇らしい。
でもその日は鍵を忘れてしまっていた。お母さんが帰ってくるまで玄関で待とうと思って座っていたらお隣さん(最近引っ越してきた綺麗なお母さんと小さな子どもふたり)が話しかけてきた。
「鍵忘れたの?うちくる?」
心細くなっていた私は頷いた。
私の家の隣は別世界だった。ほんのちょっと壁を挟んだだけの空間のはずなのにとっても自由だった。あんまりうるさくしなければ走っても大丈夫だったしおもちゃを落としても平気だった。ガンッって音は来なかった。
私は嬉しいのか悲しいのかよくわからなくなって小さな男の子と女の子の頭を撫でた。この子たちが走れることをよかったと思った。私だって本当は走りたかったけれど私はお姉ちゃんだから走るときっとうるさいのでやめた。でもいっぱい遊んだ。
帰る時男の子と女の子が「バイバイまた遊ぼうね」と言ってくれて嬉しかったけれど、もう行けそうになかった。羨ましくなるから。
オクサンは今日も元気だ。布団をバンバンバンバンと大きな音を立てて叩いている。私が物心ついたときからずっと。それを近所の人たちが「うるさい」って言ってることを私は知っている。布団をダメにする勢いでひたすらバンバンバンバン。多分ストレス発散なんだろう。オクサンは私たちの立てる音には敏感なくせに自分は今日もバンバンバンバン。
一番うるせえのはお前だよクソババア、とは言えないので炭酸ジュースで押し込んだ。
私はもう12歳だ。生まれてからずっとここにいる。お父さんとお母さんはこのままでは私の受験に影響すると思って家を探してくれている。遅いよという気持ちとありがとうの気持ちの間で私はゆらゆら揺れている。
私はもうリビングテーブルの下で遊んだりしない。妹だってそう。でも未だに音を出した時「あっ」って顔をする。その後少し眉を顰めて身体に力が入る。ガンッという音の衝撃に備えるみたいに。したくないけどしちゃう。反射だ。
早く反抗期が来ないかな。そしたらクソババアって言ってやるのに、下のオクサンに。
わが家は地雷原。引っ越してオクサンから解放されてみんな不機嫌な時にドアをバンッと閉めるようになった。私は怖いので部屋で布団に包まる。大きな音が全部自分に怒っているように聞こえてしまう。私なにかしたかなっていつも考えている。そういうことばっかり考えて寝れなくなる。いっぱい大変なことがあるってお父さんもお母さんも言ってる。ふたりとも大変。
嗚呼、喧嘩が始まった。仲裁に行かなきゃ。
リビングに行くと反抗期の妹が我関せずと言った感じでお菓子を食べていた。私が下りてきたことに気付くと「早くなんとかして」と目で訴えてきた。なんでこうなっちゃったかな。私も平然とお菓子を食べていたいよ。でもできない。大きな音が怖いし、ふたりとも大変なのを知ってるから。
学校に行けなくなった。ある日突然全てのボリュームが上がった。いつものガヤガヤが耐えられないくらいの騒音に聞こえる。学校を飛び出て自転車でどこかに向かって走り出した。帰りたい。早く。
でもどこに帰るというのだろう。
私どこに帰りたいんだろう。
黄緑色のノートに遺書を書いた。後はこの橋の上から飛び降りるだけ、そう思ったときに妹を思い出した。高校に入学したばかりの妹。あの子、お姉ちゃんが自殺した子になるのか。そう思ったらできなくて橋でずっと泣いていた。
カラスが大きな声で争っている。見ると子猫が襲われていた。カラスを追い払って子猫を抱く。傷だらけだった。
動物病院の場所を調べると結構遠かった。でもこの1カ月私は学校にほとんど行かずに自転車でフラフラしていた(先生が私に1カ月だけ親に知らせずにいると猶予をくれたのだ。いい子をやっててよかったと思った)。すぐ連れて行くからねと子猫を抱きながら自転車を漕ぐ。片手がふさがった状態で自転車を漕ぐのは大変だった。
動物病院で子猫を治療を受ける間待っている。こんな時間に訪れた高校生を他の人は珍しそうにジロジロ見ていた。正直居心地が悪い。ひとりのおばあちゃんが話しかけてきた。「こんな時間に学校は?」行く途中に襲われている子猫を見つけたのだと少しだけ嘘を吐いた。おばあちゃんはそうなの、と言った。心配で学校どころじゃないわよね。でもきっと大丈夫よ。その言葉に少し泣きそうになった。おばあちゃん、違うんだよ。私そうでなくても学校どころじゃないの。泣きだしそうになった時に名前を呼ばれた。大丈夫だって先生は言った。うちでは飼えないと言うと飼い主を探すから大丈夫だと教えてくれた。そういうボランティア活動をしている人たちもいるらしい。あそこのおばあちゃんもそうだよと先生が指差したのはさっき私に話しかけてきたおばあちゃんだった。
よろしくおねがいします、と言って動物病院を後にした。制服のシャツは泥と血で汚れていた。でもあの時飛び降りていたらもっと酷いことになっていたと考えると気にならなかった。それに、私があのまま飛び降りていたらあの子猫がどうなっていたかわからない。とりあえず、私は今日一日生きていてよかったのだと思えた。
家族仲はあの時のことが嘘みたいに良い。
私は数年前に結婚した。現在は娘もいる。
本だって読むしこうやって文章も書く。娘と一緒に絵も描く。穏やかで幸せな時間の流れを感じている。
たぶんあなたに言っても信じないだろう。嘘だと言うだろう。でもあの日あなたが生きていたから今の私がいる。
本当は私は、そしてあなたはあの子猫が飼ってみたかった。でも結局言い出せなかった。どこでなにをしているのだろう。まだ生きているのだろうか、それとも天寿を全うしたのだろうか。幸せな人生を送っているといいね。
あなたがこれから更にどん底に落ちることを私は知っている。ここかどん底だと思ったところから更に落ちる。とても苦しいと思う。私は苦しかった。悲しかった。逃げたかった。でも生きている。
実を言うとまだ大きな音は怖い。未だに怒られているように思う。もう33歳になるのにまだ怖い。オクサンのその後を共通の知人から聞いた。あまり幸せではないらしい。そしてまだあのアパートに住んでいるらしい。私はまだあのアパートに近づけそうにない。ずっと怖いままだ。
それでも生きている。生きることができている。あなたの今後を思うと本当に申し訳ないけれど、何年も先のほんの少し明るい未来でずっとあなたのことを待っている。あなたがここに辿り着いて早く一緒にこの穏やかで幸せな日々を送り、そしてファッションを楽しめる日を待っている。
過去の自分への手紙