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5.恋人岬
~今宵はどんなお酒を送ろうか~
やさぐれ男と弥右衛門 spin off番外編
もうすぐ日が暮れる。
5月中旬の喜多方は田んぼに水が張って昼は勿論のこと、日が沈む時間帯には夕日の朱色が田んぼの水に反射してとても美しい景色を作り出す。
市川優はその景色を見ることが出来る、とある場所へと向かっていた。
喜多方の恋人坂という田んぼが一面に広がっている喜多方市を見下ろせる観光地があるが、そこではない。
この5月中旬の恋人坂は朱色に染まった田んぼの景色を撮りに沢山のカメラマンが集まる為、凄く混雑しているのだという。
恋人坂の手前の道で曲がり山の方へとレンタカーを走らせる。少し早めに向かったからか、日はまだ沈んでいない。
見渡す限り田んぼの光景が広がっていて、逆に何にもないせいで道に立て掛けてある手作りの看板を見逃すところだった。
「こんな場所、地元の人しか分からないじゃん」
優は半信半疑で恋人岬と書かれた手作りの看板を左手に曲がり細い道を奥へと進んだ。
駐車場があって少し整備されていた感じがあったが、本当に地元の人しか知らないのだろう。女子高生がキャッキャと2人で戯れているくらいだ。
優はレンタカーの鍵を閉めて車から出た。
展望台らしき場所からの景色は喜多方の田んぼ達が夕日の朱色に染まり始めてきたところだった。
この場所に来ようと思ったのは一昨日の昼間にある女性に声をかけられたからだ。
「まさか旅行の最後にこんな景色が見れるなんてなぁ」
展望台で沈んできた夕日を眺めながら、優は静かに一言呟いた。
ーーーーーーーーー
数週間前に彼氏と別れた。
何か噛み合わないものがあってそれが何かは分からなかった。あぁ、これが価値観の違いだったのかと優が気付いたのは別れた直後だ。
とても仕事にストイックで尊敬していた。
彼は薬局で勤めている薬剤師で現場の仕事以外に人事やマネージャーも経験したいという強い向上心もあり、東北から東海へ転職した。
優は優で普段は離島で病院薬剤師として働いていて専門分野に特化して仕事をするのが性分に合っていたのだと思う。仕事はとても楽しかった。
仕事内容は違えど、お互いの刺激となっていたし今は遠距離だけど、いずれは結婚したいと優は考えていた。
ただ遠距離というのは会えない時間が長い故に見えないものも多く、すれ違いの水溜まりはいつの間にか大きくなっていたことに気付く。
どうやら彼は優と結婚する気はさらさら無かったらしい。「考えられない」と言った方が正しいのかもしれない。
このままでいるくらいなら別れた方が良い、と優から別れを告げた。
彼に「優から別れを切り出されるなんて思ってもなかった」と言われたが、結婚する気もないのにダラダラと付き合うことに対して「この人は私とどうしていくつもりだったのだろう」と優は一気に興醒めした。
1回壊れたものを修復するのは、ある程度の信頼と努力が必要だ。恋愛というのは難しいもので片方がどんなに頑張っても、もう片方にその気がなければ関係なんて成り立ちはしないのだ。
話し合いをして結局別れることになったが、ただ後味はスッキリしないという印象だ。
「僕の患者さんでさ、喜多方の大和川酒造のお酒が好きな人がいて転職の時にお酒頂いちゃって。そのお酒がきっかけで友達と喜多方に遊びに行ったんだよね」
付き合っている時、彼はその話を何度もしていた。頂いたお酒の写真も見せてもらった。
患者に頼られることは誇りがあったし純粋に嬉しかったのだろう。
彼とのそんな楽しい会話をした過去も胸の奥に仕舞い込んで鍵をかけてしまいたかった。
優が喜多方に1回行ってみたいな、と思ったのはその話を聞いたのがきっかけだったのかもしれない。
そして今回もはや、傷心旅行で喜多方に行ってやろうと優は思い立ったのだ。
優が喜多方旅行の初日に大和川酒造が運営する北方風土館に行った時のことだった。
試飲コーナーで男女4人が試飲を楽しんでいるのを横目に優は直売場の日本酒が沢山入ってる冷蔵庫の目の前で立ち尽くした。
大和川酒造ってこんなにお酒造ってるんだ…と圧倒されたと同時に彼のことを思い出してしまった。
やっぱりこんな傷をえぐるような場所に来るべきじゃなかったのかな、と優は少し涙ぐんだ。
すると、試飲コーナーにいた4人のうち1人が、優の立っている冷蔵庫の目の前までやってきた。
「日本酒お好きなんですか?」
声をかけてきた女性はショートカットで、お酒が強そうな人だった。さっきから何杯も試飲しているだろうに顔色が全然変わっていない。
「あ……。日本酒、よく分からなくて。飲めはするんですけれど。傷心旅行で喜多方に来ていて、あの…失恋でヤケ酒出来そうなお酒ってありますかね」
優が涙を誤魔化すように冗談交じりに笑って返答した。
女性は少し驚いた顔をしたが、笑ったりはせず、冷静に冷蔵庫に並んでる瓶に目を向けて、優に聞き返してきた。
「レモネードみたいな味は好きです?」
え…日本酒なのにレモネード…?と優は戸惑いながらも答える。
「好きです」
それならちょっと待ってね、と女性は小走りで試飲コーナーに置いてある自分の荷物から瓶1本と紙袋1枚を取り出し優の元に戻ってきた。
紙袋に瓶を入れて、はい、と優に渡してきた。
「さっき私がこの酒蔵で買ったお酒なんだけれど、3本も買っちゃったから1本差し上げます。レモネードみたいで美味しいですよ、開けたてはね。開封して2日目以降は好みがあるかも…」
いいんですか、と優は瓶の入った紙袋を受けとって彼女の顔を見た。
「さっき凄く悲しそうな顔をしてたから、元気になって欲しくて…日本酒って、環境で凄く味変わるんですよね。まるで人間みたい。そこが面白いんだけれど」
そう言って、にっこり笑う彼女の後ろ越しに試飲していた1人の男性が駆け寄って声をかけてきた。
「すみません。こいつ、絡み酒で。良かったら、そのお酒飲んでやってください」
男性は優に会釈すると、優にお酒をくれた女性の肩をポンと叩いた。
「七海、そろそろ行くよ。友里恵さんと船越先生もちょうど試飲終わったから、次の蔵行かないと」
女性は「はぁーい」と緩く返事をした。
「あの…ありがとうございます」
優は女性にお礼を告げると、女性は優の顔を見た。
「喜多方観光してるなら、今の時期の夕方に恋人岬って場所とてもお勧めです。恋人坂じゃなくて恋人岬。嫌なこと全部忘れられますから」
優に一言そう伝えて、彼女は先程声をかけてきた男性と試飲をしていた他の2人の元に合流し、北方風土館を出て行った。
女性からもらったお酒は白いラベルで「Sun ーさんー」と書いてあった。他の大和川酒造の日本酒の瓶よりも一回り小さい瓶だ。
その日の夜に瓶を開封して飲んでみたものの女性の言うとおり確かにレモネードみたいな味がして飲みやすかった。
開封してその日中には飲みきれず、2泊目の夜に残りのお酒を飲んだ優は「何これ」と口を抑えた。
飲んだことない味だった。
酸味はあるのに口腔内に広がる旨味。
昨日飲んだ味からガラリと変わっていた。
確かにこの好みは人に寄るかもしれない。
飲んだ瞬間、苦手かも…と一瞬思ったが後からくる旨味は嫌な感じではなかった。
「環境で味が変わる」「まるで人間みたい」と言ってた彼女の言葉をふと思い出す。
(私も環境が変わって人としての味が激変しているのは今なのかなぁ)
あの女性が言ってた恋人岬に旅行の最終日に行ってみようーーー
ーーーーーーーー
日がいよいよ沈んできて、さっきまでキャッキャと騒いでいた女子高生達も静かに景色を楽しんでいる。
優もまた沈んでいく太陽を目で追った。
田んぼを囲っている山々達もまた風情があって、盆地の景色は上から見るとこんなにも美しいのかと思う。
田んぼに水が張っているこの時期だからこそ、楽しめる景色なのだろう。
「……1人で旅行も悪くないかな」
優は日の光に目を細めた。
彼と付き合わなければ
失恋して喜多方に来なければ
勇気を出して大和川酒造に行かなければ
この景色と出逢うことはなかった。
人生は点じゃなくて、きっと点と点が繋がってる線であって、優があの女性と出会ったのも何かの縁だったのかもしれない。
夕日が沈んで田んぼの水の色が朱色から紫のグラデーションを織り成していく。
知らなかったこの景色のように、世の中には私の知らないこともあってまだ出逢っていない人達も沢山いる。
私の人生はここで終わりな訳じゃない。これからもずっと続いていく。
「傷心旅行が喜多方で良かったかも」
そう呟いて、優はズボンのポケットからレンタカーの鍵を取り出した。
旅行前は胸に何かつかえていた気がしたのに、その違和感が無くなっている。
車に乗り込んでエンジンをかけた。
今日は関東の実家に帰るから電車の時間に間に合うようにレンタカーを返そう。
休みが明けたら、また仕事を頑張れる気がする。
辺りは暗くなってきているのに、優の気持ちは晴れやかだった。
もう夜になりかけている恋人岬から下方に続いている長く長く続く1本の道を1台の車が走っていった。
ーやさぐれ男と弥右衛門 spin off 【完】ー