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#178 ”ハーディ”と”涙”

ずいぶん昔、英語の授業で英国人作家「ハーディ短編集」と「大人の涙」に出会ったというお話。

英語の授業で”ハーディ”と出会う

 私が大学一年生(今から37年前)の時、選択科目の英語授業でテキストとして指定されたのがトマス ハーディ(トーマス ハーディー)の英語短編小説で、それがハーディ作品との出会いです。工学部の学生のほとんどは、高校生の頃の受験勉強で”燃え尽きた”のか、教養科目の語学を真面目に取り組むのはどちらかというと”少数派”でした。私は小説を読むのが好きだったので、それを英語で読む授業と思いながら結構楽しみながら受講していました。授業前には自宅で2時間ほど(?)”紙の辞書”を繰り返し何度も調べながら、知らない単語を一つづつ解読していく作業、面倒だけれど意味がつながると嬉しく宿題をしていました。ハーディは、それまでに読んだことのある日本人作家とはまた一味違う、懸命に生きるも必ずしも報われない”大人の哀愁”を感じる人生劇場の鮮やかな描写が気に入りました。建築家でもあった小説家というのも、工学系の学生にはしっくりときたのかも知れません。

担当教員の涙

 大学での講義は、それまでの高校と比べ「先生」から「教授」と呼び名も変わり、気安く話しかけられる感じがしていませんでした。(こちらが勝手にそう思っていただけなのかも知れませんが、、、、) ハーディを毎週講義してくれた教授も、物静かで感情をあまり表に表さない知的でクールな感じの方でした。その先生が、ある日の講義で涙を見せました。「私は悲しい。」そう静かに告げると、我々学生を教室に残してその日は授業途中に退室して戻って来ませんでした。

 講義のテキストは当然英語でのみ書かれ、日本語のヒントは巻末に時々数文字載っているものでした。受講学生の中に、新潮社から出版されていた「ハーディ短編集」という日本語訳本を教室に隠し持ってきて、授業で指名されて訳す時に日本語訳をそのまま読んでいたのです。(えらい上手い訳だなぁー)と最初その回答を聞いたときに思いました(そりゃそうです。プロが訳した本を読んでいるのですから)。当然担当の先生もふと頭を持ち上げ、教壇から読み上げている学生の机の前まで行き、隠しながら読み上げている日本語の本を見て、静かに教壇に戻り目に光るものを見せて呟き教室を出て行きました。

「男は涙を見せられないもの♪」

 河島英五の流行歌のフレーズではないけれど、昔は男が人前で涙を見せるのは珍しいと思われていたので、目元に光るものが見えたときには驚きました。今は、男女関係なく誰もが”心の安全弁”として涙を流すものだと思います。

 大学の先生は、高校までとは違い感情がない違う世界の人たち、と勝手に思っていました。でも、それは私の勘違いだと気づきました。英語を教える事を言われて嫌々教えているのではなく、本当に英語を自分自身が好きで、その楽しさを他人にも伝えたいと思って教壇で教えているんだと気づきました。

 偶然にもこのNote記事に「涙」「ハーディ」について書き、書きながらあの英語の先生が思い出され今回書くことにしました。 今、ハーディ短編集の記憶と共に、懸命に生きる大人の力強さと哀愁の記憶が蘇ってきます。