📚久我山でのすてきな出逢いと別れ📚どりかむ図鑑~くじら久我山店長・ゆうだい 前編~📚
株式会社どりーむずかむとぅるーのスタッフの秘密に迫る「どりかむ図鑑」、9ヶ月ぶりとなる(ごめんなさい!)今回8人目のメンバーは、カリーショップくじら久我山店の名物店長・ゆうだいです。
ゆうだいさんのゆったりとまぁるい口調は、ゆうだいさんの人柄そのもの。本当は音源でお届けしたいくらいピースフルな空間が伝わるよう、一生懸命文字に起こしました!ぜひご覧ください🥰
デザインを生業にした生活、どりかむとの出逢い
-いま、カリーショップくじらの事業が盛り上がるなか、久我山店のアイコンでもあるゆうだい店長の人柄を「どりかむ図鑑」を通じてもっと届けたいと思っています、よろしくお願いします!
ゆうだい(以下省略):はい。
-今までの「どりかむ図鑑」は企業理念への向き合い方とか働く姿勢が見えてくるようなお話を聞かせてもらうことが多かったけど、今回はゆうだいさんの人柄がより伝わるようなパーソナルな部分を中心にお話しできたら嬉しいです!
はい、むずかしいですねぇ。
-まず、どりかむに入社された経緯は聞きたいです!
ほぉ!もう、本当に常連さんが口を揃えて言うように、こうさん(どりかむ代表・清水幸佑)とようさん(どりかむ副社長・髙橋勇)のお店(どりかむ初号店・音飯)が最高で、そこにこうだいと通ってて。
-こうだいさんって、ゆうだいさんの双子の兄弟ですね。もともと高円寺に住んでたんですか?
新宿生まれ高円寺育ちですよ。
阿波踊り(高円寺の名物祭)をやってたから、近所の飲み屋に行っちゃうと阿波踊りの人に会うことが多いから、気にすることなく隠れられてしかも美味しいお店ってなると見つけるの難しくて。穴場的なお店を探してたんですよ。
もう、ここ(音飯)が一番隠れられる場所だなって思って。あとは看板を見てすごい気に入って。食事が美味しかったり、ようさんがおもしろくて。
ずっと音飯に通って、こうさんとようさんが覚えてくれて、どんどん(ふたりのことを)好きになっていって、それが始まりですね。
-音飯に通うようになってから割とすぐにどりかむに入社されたんですか?
音飯に通うようになったあと、沖縄に3年くらい移住してて。そのときはファッションデザインとか内装とかやってて。東京に戻ってきてもまだデザインとか制作をやりたくてデザイン事務所に戻って。
そのときもたまに高円寺でこうさんと会うようになって、なにやってんの~って近況話したりして。こうさんからも会社がでかくなったんだぞ、って聞いてて。
そのときはもう、まらと、こあらと、椿と、くじらがすでにあって(すべてどりかむ運営飲食店)。そんなに店舗あるの~って驚いて。食べに来てー、じゃぁ今度食べに行くねー、って予約してもらって。
またいろいろ話すようになってきたころ、ちょうどデザイン事務所も辞めようと思ってた頃だったから。こうさんから、ちょっとだけやってみろよ、ってどりかむに誘われて。
-どりかむの一員になってからくじら久我山ができるまでは何を担当されていたんですか?
椿で2〜3年くらい和食の修行をして。
たぶんどりかむ界隈で知らない人も多いけど、ぼくはもともと和食、そのなかでも蕎麦をやりたくてどりかむに入ったの。
-え!それは初耳でした!
ふふふ(笑)蕎麦の江戸前打ちっていう打ち方を覚えたくて、そんな話をこうさんとして、最初は椿の手伝いから始めてだんだん教えてもらっていけばいいんじゃない、って。
だから椿の洗い物して魚をさばいて出汁をとって焼き場もやって。やらなきゃいけないことは全部やってました。
-そのころ、椿ではどんなメンバーと一緒に働いてたんですか?
そのころの椿は、まんごさんとのぶさんの時代で、蕎麦以外のことを最初に教えてもらって。
めっちゃくちゃふたりのことが大好き。ふたりがいたから、椿をすごい好きになったし、椿にずっといたかった。
まんごさんは背中でしか語らない人!ほんとうに何も言わずに。話すときは下ネタくらいかなぁ、あとは仕込みの時くらいだけ(笑)
のぶさんも喋らないけど、のぶさんはギャグを言っちゃう病気で。それが発動しはじめてお客さんからもそれめちゃくちゃいいじゃんってなって(笑)
そのふたりがめちゃくちゃ信用してくれてたから成り立ったのかな。
-椿で修業していた時代からいまに至るまで、どんなことがあったんですか?
椿で修業してたけどコロナ禍で椿が休業してから、こうさんと話してて、おまえはどこか店舗に入るんじゃなくて夏フェスとかイベントの当番ね、って言われて。まらとか手伝いながら、フジロックとか森道市場とかに呼ばれるようになって、イベントに絶対に行かなきゃいけない要員になってめちゃくちゃツラかったです(笑)。
そのころ新店舗(くじら阿佐ヶ谷、くじら久我山、ミクロ幡ヶ谷)の内装とかにも関わるようになって、くじら久我山の誕生がきっかけで店長になったの。
-え!じゃぁくじら高円寺店に異動になった経緯もなく、いきなり久我山店の担当になったんですね!
そう。3日間くらいくじら高円寺で修行して。めちゃくちゃ大変だったよ(笑)
新店誕生とともにはじまった久我山での生活
-ゆうだいさん自身は久我山に縁はあったんですか?
もともと兄弟のこうだいが久我山に住んでて。「くが野」っていう、くじら久我山の隣にある居酒屋の常連で、ぼくもしょっちゅう遊びに行ってたの。
そのうち、こうさんも「くが野」に遊びに来るようになったんだけど、隣の店舗がもう店仕舞いをするって話を聞いて。それじゃぁそこでどりかむが店をやろう!ってすごいスピードで話が進んだんだよね(笑)
本当に人の出逢いがすべて。ご縁なんだなぁって。
そこにくじら久我山ができることになって、こうさんから、ゆうだいが店長をやれって言われて。それで久我山にも引っ越してきたんだよね。
久我山在住歴はまだ一年くらいだけど、こうだいが7年くらい住んでたからぼくも長い間久我山には通ってて。
-久我山ではどんな出逢いがあったんですか?
久我山に通い出すようになってからずっと「くが野」のお母さんと仲よくて。「くが野」のお母さんが亡くなるときまでほんとうに良くしてもらってて。
80歳くらいは過ぎてたけどそれでも店にいたから、店に立つことが生き甲斐だったんだと思う。それはすごいわかるし、俺もばあちゃん子だったから。どんどん好きになってたんだよね。
そんなとき、お母さんが「くが野」をどうしても継いでほしいって俺に言いはじめて。俺のステップになればいいからとりあえずやってみな~、って言ってくれてて。
「くが野」は、田舎のおばあちゃん家で飲んでるような雰囲気がすごく好きで、ここでお店やりたいなっていう気持ちもすごくあって。だからこうさんにもようさんにもけっこうその話は言ってたんだよね。
ふたりもいいじゃんって言ってくれてて。どりかむでやるのか、俺が独立する感じでやるのかっていうのはいっぱい相談してて。
1ヶ月くらい、くじらがランチ営業だけのときにくじら閉店後に「くが野」に立って自分も働いてみたりして。売上も見えてきてほんとうにやってみようかな~って思ってた頃にお母さんも亡くなっちゃって。突然。
継ぐ話もまとまってなかったから使用権とか色々関係してきて結局そのまま閉店しちゃって。
もう歩けないよ~、って寝たきりになってたお母さんから、ゆうだいくんお店やれるの~?ってずっと心配の電話をもらってて、本当にお店やらなきゃなーってすごい思ってたから、なおさらすごい哀しくなった。悔しくなった。誰が悪いとかじゃないけどもっと早くなにか行動を起こしていればなぁ、って。
-そんなできごとがあったんですね。話を聞いていると、きっと「くが野」では多くの人にいろいろな出逢いが起こってたんだろうなって想像します。そんななか、ゆうだいさんだからこそお母さんとも濃く深い縁が生まれたんじゃないでしょうか。
前編はここまで!後半では久我山やくじらの魅力、ゆうだいさんの人生観について聞いちゃいます!
※取材・撮影時のみマスクを外しています
<取材・文・撮影 みやの>
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