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#3|餌を与えるほうが勝つ

幸せになりたいなら、毎日感謝と喜びを感じて生きていきたいなら、自分が何をしたいのか具体的に決めるのではなくて、静かにしていなければなりません。

「静かにする」とは、どういうことでしょうか。
どういう状態が静かな状態なのかを知るためには、まずは、普段、自分の考えがどれほど騒がしいかに気づくことが大切です。

わたしの場合、心のことを学ぶようになって身についたことは観察することでしたが、自分の心を観察していると、日常のさまざまなことに反応しており、過ぎたことか先のことについて、あれこれどうでもいいことをひたすら繰り返し考えていて、少しも平和な心の状態ではない、ということに気づきました。実に、うるさい。騒がしく、落ち着きがないのです。

常に何かを考えていなければ死ぬ、とでも言うように、過去に起きたことについて、あるいは未来に関することについて——つまりは、そのようなことをいくら考えたってどうしようもない、意味のないことを——考え続けているのです。

個人的な考えで心を埋め尽くしていなければ、<何か>がやってくる。その<何か>に、わたしはとうてい勝てない。

普段このようなことを頭で考えていたわけではありませんが、心に何が起きていたかを言語化してみるなら、こうした思いを抱いていたのだと言えます。

もし、自分の中の個人的な考えがゼロになったら?想像してみてください。二度とこれまでのような考え方、反応の仕方、心の状態ではいられなくなるとしたら……?
それは、何を、意味するのか。それは、どういう状態なのか。

わたしは、わたし個人のものとは異なる<何か>を恐れていて、その<何か>に、わたしという個人的な思い(もっと言うならアイデンティティー)を奪われないように、まさに必死で、意図的に騒がしくしていたのだと気づきました。

静かにしたら、きっと脅かされるに違いない
端的に言えばこういう思いです。あれこれ何かを考えている(誰かや何かのことをジャッジしているか、過ぎたことをぐるぐるとリピート再生しては同じ思い・同じ感覚を強化しているか、今後のために何をしておこうかと考えたり、計画を練ったり、先のことについて心配したりして——とにかくただ価値判断しているだけ)というのは、思考がうるさいのは、恐れているからなのです。

静かにしたら、侵略されるだろうと信じています。心の、深いところで。おそらく無意識のうちに。もしここにほんの少しでも気づけたら、静けさに近づいたことになります。静けさを受け入れることに、心が開き始めるからです。

このまま自分の個人的な考え(不毛な堂々巡りの思考)を続けるか、それとも、そうしたものを脇に置いて、静けさを迎え入れるか(<何か>に心を開いてみるか)、わたしたちは常に選んでいます。毎日、毎時、毎分、刻一刻、選んでいます。

たとえば、誰かに腹を立てたとして、その次の瞬間、やかましい自分の個人的な考えか、静けさ(まだ明瞭ではない<何か>)か、どちらかを選ぶことになります。相手がどんなに間違っているか、どんなにひどいかについて考え、心の中でどこまでも裁き続けることができるけれども、そうした思いを全部脇に置いて停止し、静寂をただ受け入れようとすることもできます。


Tale of Two Wolves

「2匹の狼の話」は、有名なのだと思いますが(Amazon Primeの海外ドラマを時折観ていますが、あるドラマの日常会話のワンシーンで、ごく自然な感じで引用されていました)、わたしが初めて知ったのは、A Course in Miracles(『奇跡のコース』/『奇跡講座』)の教師である、ジョン・マンディさんの著書を読んだときでした。

この2匹の狼の話は、ネイティブアメリカンのチェロキー族に伝わるものだそうです。ジョン・マンディさんの著書ではこのように記されています。

 友人に腹を立てている孫息子に、年老いた祖父が言いました。
「多くのものを奪っておきながら後悔も感じない人々に対して、私も大きな憎しみを感じたことがある。しかし、憎しみはおまえを疲れさせるだけで、敵を傷つけることはない。それは、敵が死ぬのを願いながら、おまえが毒を飲むようなものだ。私たちの中には、あたかも2頭の狼がいるようだ。1頭は親切で理解力があり、傷つけることをしない。それは周りと協調して生きており、怒りを感じることはない。もう1頭は復讐心に燃え、怒りに満ちている。ほんのささいなことでもかっとなり、誰とでも理由もなく戦う。怒りのために考えることができず、憎しみは非常に大きい。ときに2頭の狼を抱えながら生きるのは難しいものだ。両方とも私のスピリットを支配しようとするからな」。
 少年は祖父の目をのぞき込み、尋ねました。
「それでどっちが勝ったの?」
 祖父は笑って言いました。
「勝つのは私が餌を与えるほうだよ」

『奇跡のコース』を生きる 入門から実践まで
ジョン・マンディ著
ナチュラルスピリット


どちらに餌を与えたいのか。本当に正直になりたいですね。

個人的な考えというのは、言ってみれば「闘いマインド」から生じるものです。誰かや何かを裁いているときだけでなく、たとえば健康な体でいるためにあれが必要これも必要と、一生懸命努力しているときも「闘いマインド」、戦闘モードです。心に平安が拡がっていません。恐れています。

一方、静けさは、どうでしょうか。静けさは、わたしたちの純粋な心、清らかな心の状態を指します。こちらがわたしたち本来のありようです。本当は、こちらが“自然”なのです。一切、闘いません。敵などいないからです。打ち負かしたいもの、克服すべきものなど、“見えない”からです。

やかましくしているか、静かにするか
さて、どちらが幸せであれるのでしょう。答えは明白ですね?

“Learn to be quiet”(静かにすることを学びなさい)と、A Course in Miraclesで述べられています。幸せと平安というゴールのためには、静かにすることを学ぶこと、なのです。


決めないからこそ、願いが叶う」のでした(#1の記事で述べました)。
何が自分を幸せにしてくれるのか、自分はわかっていると信じ、そのための道筋を自分で決めようとする心は、恐れに満ちていて、闘いマインドを選んでいるので、疲れ果ててしまいます。自分の騒がしい声に、自分をジャッジする考えに、その冷たい視線に、傷つくのです。

それならば、静かにするほうを選びたい。それなのに、やかましい状態、個人的にあれこれ考え続けることを止めずにいる。これはどういうことなのでしょう。どうして、うるさい声のほうに、愛のない狼に餌を与え続けるのでしょう。

静かにするのが嫌なのは、もし静寂のなかにいたら、<何か>を感じずにはいられないからです。わたしたちは、<何か>を恐れています。
何を——?

次回は、この<何か>について、触れてみたいと思います。

Blessings,

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