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ミナリを観て

「ミナリ」という映画を観た。アメリカンドリームで成功するために韓国から渡米した一家の物語。お父さんがちょっと破天荒気味。

その映画を見ているときにふと「あ〜、情報に溺れてしまってるな」と感じた。

なぜそれを感じたかは明白で、映画に出てくるお父さんが自分の夢や成功に向けて一途だったからだ。それがいいとか悪いとかは置いておいて(破天荒な親父に振り回される家族は大変)、自分の思いにただただ突き進む姿は、ただただシンプルだった。

時代背景は1980年代。私がちょうど生まれた年代。今よりも圧倒的に情報も少なく、選択肢も少ない時代。あれから40年経ち、情報も選択肢も圧倒的に増えた。それはある意味豊かで幸せなことではあるけれど、一方で生き辛さも増した。人間の本質的な能力は40年で飛躍的に伸びたわけではない。情報処理能力はさほど変わってないとすると、情報の取捨選択は、生きていく上で切実な課題だと感じる。

映画の中の家族は金銭的に豊かなわけでもない。お父さんは破天荒、息子は病気を抱えている、という、なかなか訳ありの家族でもある。でも流されてないなって思った。それぞれが自分の意志を持って生きているように見えた。そして今のような得体の知れない情報に飲まれていない時代の暮らしは、シンプルでいいなと思った。(もちろんその時代時代で苦労はあるだろうから、一概にあの頃はよかったとは思わないが)

本屋に行くと、スマートに生きるためのノウハウが書かれた本が平積みになっているのをよく見かける。そしてよく買っていたことを思い出す。ただただ、社会からはぐれないように、集団から浮かないようにと一生懸命だった。確かに現代社会を生き抜くには賢さも必要だろう。知っていれば得することがたくさんある。でもそれを追い求めて生きるというのは、なんだか本末転倒のような気もする。賢く生きるその前に、自分が何をしたくて、自分は何に幸せを感じて、どう生きたいのかを知っておくことが大事だと、映画を見て改めて感じた。軸を知らずに情報に飲まれて生きることはどこか危険な気もする。そういえば最近、前はよくみていたお金系のYouTubeを全く見なくなったな。。。

デジタルデトックスという言葉もあるように、そういった情報から距離を取ることも必要かもしれない。不思議なことに、私の尊敬する人や親しい友人はあまりSNSをやっていなかったりする。自分の生き方が定まっている人は、そういう媒体が必要ないのかもしれない。私は、、、ひとまずケータイを棚の奥にしまうことから始めよう。