1.ごめんね…ありがとう…
今、54歳(5年が過ぎて59歳)。こんな歳なのに生き方がわからない
かつての友人たちは、もっと大人で
私は、イライラが止まらず
自分が恥ずかしい
幼いころ、6畳一間の安アパートで、母と二人で過ごしていた。
自分と居たらまともな教育ができないが母の口癖。
狭い万年床にくろがねデスクが鎮座し、さらっぴんのドリルが積まれていた。そしてミズヤ(食器棚)と三面鏡。これが全ての家財道具。
母は小学校五年生までしか学校に行けなかった。下着をシーツから作るような貧乏な家で育ったと聞いている。旅館の手伝いをする為に学校を辞めたそうだ。
母の母親は理由は不明だが家出し、兄と父との暮らしの中で、母は心臓リュウマチを患い、一時期寝たきりだったと聞いている。心臓弁膜症と肥大症を慢性化させていたのが母だった。
私も持病があり、私の子供も孫も健康とはほど遠い。
病気の体で、私と兄を生み、一人で育てていくつもりだったようだが、それは無茶なことだよなと思う。寂しさから子供が欲しかったのだろう。今となっては迷惑な話だが、私も同じなので責められない。
私の父の妾だった母は、きっと最初はそうではなかったのだろうけど、恨み言ばかり呟いていた。
私が小学校を上がるぐらいまでは、母は中居をやって生計をたてていたが、小学校低学年ごろには、男性に養ってもらっていた。好きでもない人だったが働くのは難しくなっていたんだと思う。
家は本当に貧乏だったのだけど、そろばんと習字は習わせてくれた。
私の記憶の中では、小学校低学年ごろから、母は徐々に精神を病んでいた。高学年のころの母の記憶の言動では、水道に何か混入されているとかで、夜、校庭の水道に水を汲みに行かされたりしていた。
私は母が大好きだったけど、喧嘩は絶えなかった。モノを投げあったり、たたいたり、今なら虐待と言われてもおかしくないが、私も負けてなかったので、逆虐待?も有という状態。そして、死んでしまえ!など暴言を吐いていた。本当に死んでしまった後は、吐いた言葉にかなり後悔した。本心ではないにしろ、言葉は怖い。放った言葉は元には戻せない。
実際、喧嘩が多かった私たち親子は、母が言うように本当に苦情がきていたのだろうか?
近所付き合いが全くない母。苦情の為に1年ごとに転校を繰り返してはいたのだが、家に苦情を言われた記憶がない。迷惑は迷惑であっただろうけど、母の妄想?と今は想像する。
家にはドリルの方が多く、絵本はなかった。読み聞かせなども記憶にない。
遊ぶためのおもちゃではなく、知育玩具があった。母は教育ママだったのだ。おかげで小学校は勉強せずとも苦労はなかったが、勉強の習慣がついてない、頭がいいと勘違いした中学生以上はそんなに上手くいかない。
母は心臓リューマチだったが、私は喘息とアトピー性皮膚炎を未だに患っている。あ、リューマチとアトピーってどちらも自己免疫疾患じゃないか!完璧遺伝か。書いてる今繋がったよ。アホー。
病気と闘うとは良く言うけど、正直楽しくないよね。終わりが見えないし。
戦うより、死んじゃったほうが楽とか思う今日この頃。
やっと母の気持ちがわかるようになった今日この頃。
私が12歳のころ、疲れちゃったんだよね、恐らく。楽しくないもんね。
私を置いて、あの世へ自ら飛び立ってしまった。
優しくないわが子と、楽しくもない、しんどいだけの毎日。辛かったと思う。今はよくわかるよ。
母は今の母親基準だとどうかなと思うことは多々あるけど、愛情はとても強く、下手なりの精一杯の愛情を沢山もらったと思っている。
母が亡くなった後、一度も枕元にたつということはないのは、見限られたのかもしれないとも思うが、精神衛生上よくないので、ぼかしたままにしてある。
周りのよく知らない人たちは、私を一緒に連れて行かなかったことをほめていたが、私としては、一緒に連れていってほしかったと未だに思う。
私の子供や孫や夫たちなど、私なんかと関わらなければ、もっと違ったかもしれないから。
わかんないよ?
もっと悲惨かもしれないけどね。でも
なんでだろうね、そう思ってしまう。ある意味、失礼なのだろうけど、皆幸せとは遠いと感じられて。辛いことが多すぎて。涙出ちゃうんだよね、そんな中で一生懸命生きなくてはならなくて。
これを書こうと思ったのは、ただの老婆心?
ううん、よくわからない。
子供の頃に親を失った私のただの承認欲求かもしれない。
私や母は今の日本にしたら、平均以下の暮らししかできなかった。
知っていれば違ったかもしれないと思うことも多い。それらが
もし、誰かの為になれば
そして
皆に
ありがとう…ごめんね…
感謝と謝罪しか出てこない