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追記──私たちはどう生きるか

【和歌山県】編 追記

(承前)
『深重の海』津本陽/『鯨分限』伊東潤への旅──本編は、いかがだったでしょうか。ご感想をお寄せいただければ、とてもうれしいです。

 で、ここからは、本編のつづきです。
 まだまだ太地町の文学旅行はつづくのでした😊
 ぜひ、本編と併せてお読みください。より楽しい想像力の旅をお約束します。以下に本編のアドレスを掲げておきますね。

旅色の連載はこちら😊↓

https://tabiiro.jp/plan/1889/


 では、出発しましょう。町の風景を観賞しながら、本編のテーマの一つだった「生活の手段」あるいは「働くこと」について、別の角度から旅していきたいと思います。
 というのも……近年、太地町の「移民の歴史」が再発見・再評価されようとしているんです。っていうか、クジラの町として知られる太地町が「移民の町」でもあった、って知ってました? 小生、寡聞にして知りませんでした、恥ずかしながら。。。前出の櫻井さんに出会うまでは。


知られざる海外移民の町を往く


 もちろん、アントニオ猪木が一家でブラジルへの集団移住に応募していた話は有名ですし、世間を戦慄させたジャニー喜多川氏も那智勝浦から渡ったアメリカでの生活が長いことは耳にしていました。
 また文学旅行的には、司馬遼太郎『木曜島の夜会』があります。なので、紀伊半島・熊野の人たちがオーストラリアへ出稼ぎしていた物語は読んでいたはずでした。しかし、そんなうっすらとした認識は、具体的な地名・太地町と結びつくことがなく、要はうかつだったのです。

太地町立石垣記念館。移民画家の来歴については画像をクリックして旅色連載へ


 太地浦の海外移民は、明治期半ば1880年代末(明治20年代)から始まっていました。してみれば、日本人の海外移民史のうえで、ごく初期の頃だったことが分かります。なにせ幕末までは鎖国していたのですから(正確に言えば、日本の鎖国令が解かれたのは1866年です=JICAサイト参照)。

 紀州半島の移民は当初、漁村を中心に多くの人たちがアメリカを目指しました。うち太地人の大半は、ロサンゼルスの人工島ターミナルアイランドに住み着くようになります。そこでチキン・オブ・ザ・シーと名付けられた缶詰の製造に家族ぐるみで従事したのです。今も食卓を彩る「シーチキン」の元祖です。
 1930年代(昭和初期)にもなると、アメリカだけでなく、カナダやオーストラリアを含めて、太地町では550人ほどが海外移住していたといいます。当時の町人口は3700人程度。海の向こうから太地に仕送りされてくるお金は、町の年間予算の5倍に達していたといいますから、その意味は、もって知れましょう。 

石垣記念館の移民関連展示①


 こうした移民史を、太地町が外へ向かって発信し始めたのは、学術関連の資料を除き、2015年前後のことでした。それ以前に、その知られざる来し方を積極的に広報したであろう記事やPR的なペーパーは見当たりません(注:NPO法人文学旅行調べ)。それが2015年を境に、まるでコンプレックスから解き放たれたかのように、情報があふれてくるのです。

 いったい2015年に何があったのでしょうか。
 このとき「在米太地人会」が創立100周年を迎え、記念祝賀としてさまざまな企画が開催されたのです。ネット検索すると、町では教育長を代表とする訪問団が組織され、カリフォルニアで交流を行ったり、和歌山県とも連動して移民関連の企画展示をミュージアムで開催するなど、数々の記念行事を伝える新聞記事が多くヒットします。

 ところで、皆さんは「移民」について、どんなイメージを持っているでしょうか。当時の日本の「貧しさ」ゆえの事象だった、と教えられているのではないでしょうか。上記の新聞記事でも、太地の人たちの海外移民について〝生活の糧を求めて〟〝働き口を求めて〟といった常套句を用いています。明治という時代は、地租改正により租税が米から金納に改められ、日本が本格的な貨幣経済へ入っていく時代でした。併しお金の循環には偏りがあり、しかも国家予算の4割が軍事費に充てられた「富国強兵」の時代です。地方の農村漁村は置いてけぼりをくっていました。子どもを8人生み、病気その他で4〜5人が成人すれば良い、といった過酷な時代でもあります。新聞記事が常套句を使うのも無理はないでしょうし、それは事実でもあったのでしょう。

石垣記念館の移民関連展示② オーストラリアへ出稼ぎに行った紀州人は、貝を捕るためにダイヴァーが着る潜水服を「デレス」と発音した。ドレス Dressのことである


海を渡る心情の奥底にあったものは……


 那智山脈に囲まれた狭小な集落だった太地浦は、本編で旅した「背美流れ」によって古式捕鯨が壊滅したあと、困窮し、仕方なく、やむなく、人々は海外へ渡ったのでした──という、左翼的な、ステレオタイプな、マスコミ視点の印象操作とは少し違う見方を、ここではしてみます。

 人も言葉も文化も異なる外国へ渡ろうとするエネルギーは〝ここでは食えないから〟というネガティブな感情だけでは到底湧いてくるものでないと思うのです。そこにはもっとポジティブな方向の、より強い動機があったのではないでしょうか。

 前述の『木曜島の夜会』も、このあたりの機微を追究していて深く読むことができます。まぁ、単純なポリコレの蔓延する現代では差別的として疎まれる表現も少なくないのですが。。。

『木曜島の夜会』司馬遼太郎(文春文庫)

 オーストラリア・木曜島での仕事は、美しいボタンの原料・白蝶貝を採取するために、海底へ潜るダイヴァーになるものでした。文字通り死と隣り合わせの過酷な労働です。島には今も日本人墓地があり、和歌山県串本町によれば、この仕事によって約700人が亡くなったといいます。それほど危険な労働だったにもかかわらず、日本人は他船の3倍働くと現地で評判になります。

『木曜島の夜会』には、大正期から昭和初期に木曜島へ出稼ぎに行き、帰国して余生を送っている古老(宮座鞍蔵氏)が登場します。古老は、出稼ぎの理由を金銭への強い願望だったと了解する一方で、「すこし、ちがうようにも思う」と述懐します。死の危険を伴う仕事に対して、古老は「あれほどおもしろいことはなかった」という感慨を抱いていました。併し、その気持ちの深部を的確な言葉で表現できず、あとは押し黙ってしまうのです。

 同作で司馬さんは、常に稼ぎのトップに立とうとする働きぶりと寡黙な振る舞いに「日本人のしょう」を見いだそうとしました。その試みに迫れるとは思いませんが、追加事項になるような特筆すべき興味深い風習を本編に登場した櫻井さんから伺うことができました。

 太地町では、出稼ぎで大金を得ると、家の外壁をペンキで塗るようになった、というのです。色は白だったり、ピンクだったり……。船用ペンキは潮風から家屋を守る、西洋風の生活様式を誇っている、など諸説あるようですが、ともかくもペンキ塗りはお金持ちのステータスシンボルとなり、そうした家は周囲から憧れをもって見られていたといいます。

ペンキ塗りの家

 海を渡った移民たちの中から成功者が出る、それが風聞されると我も我もと移民するようになる、ある者は帰国して錦を飾るように大きな家を建てる、するとまた移民へ出る人たちが増える、そうした循環の底流には、お金への執着とともに〝あいつにできて俺にできないはずはない〟といった心情も流れていたかと思います。その胸のうちを因数分解すれば、競争心という言葉では足りない、ドロッとした粘度の強い感情があったはずで、古老が心境を表現できず押し黙ってしまうのも、単に語彙が少なかっただけではないのかもしれません。

 漁師町の気性は荒い、とは一般的に言われます。海という大自然を相手にする狩猟ですから、気が強くなければできない職業のように認識されているところがあります(人間を相手にする仕事のほうがよっぽど大変だとしてもです)。加えて「一頭で七浦うるおう」と謳われたほど、一度に巨大な利益をもたらす捕鯨が生活手段の柱だった集落では、一攫千金を狙う気持ちが強くなるのも自然なことかもしれません。現代にも「マグロ御殿」という言葉があるではないですか。

串本町にある顕彰碑(ダイヴァーの釜=ヘルメットが象られている)


 マグロ御殿も、ペンキ塗りの御殿も、その在りようは、「無い者」が天上へ向けて渇望する「有る者」の姿であったことに違いはないでしょう。海外へ移民しようとするとき、そこにはあった心持ちは、悲哀と混じり合いながらも、ざっくりとした比重として、歓喜への渇望が一定の重みをもって沈殿していたのではないでしょうか。それは〝食うに困って〟とか〝働き口を求めて〟といった、必要に迫られた「ニーズ(Needs)」ではなく、より積極的な〝こうなりたい〟という「ウォンツ(Wants)」だったはずです。

 前出の櫻井さんの学術的な感受性に、私は上記と同じスタンスを感じるのです。彼の海外移民に対する見解のひとつは、こうでした。

「太地の人たちがアメリカ、カナダ、オーストラリアの海へ出ていき、何かしらの漁業に従事したのは、熊野の海で培った技術と能力を生かして豊かさを得るチャンスをつかもうとしたのではないでしょうか」

 人も言葉も文化も異なる外国へまで行こうとするエネルギーの源泉は、自分の「能力」を充分に発揮したい、という気持ちだった──この太地の人たちに、当然ながら本編で述べたような自己欺瞞の入り込む隙は1ミリたりともありません。


あなたはどんな仕事をしたいですか?


 移民の歴史を太地町が広報し始めた背景には、小さな意識改革があったのだろうと拝察します。その小さな意識を換言すれば〝貧しい集落の歴史〟というステレオタイプな言葉遣いによる呪縛からの解放、とみることもできるでしょう。
 前向きな変化を可能にしたのは、実務の担い手に櫻井さんをはじめ専門知識をもった人材を町外からヘッドハンティングしてきたことも大きかったと思います。一見すると捕鯨とは何の関係もないように思える海外移民の歴史を調べてゆく作業は、連続しているはずの時間軸にあった空白の断線を徐々に埋めてゆくだけでなく、捕鯨の歴史全体を一本のきれいな線として浮上させました。

 櫻井さんは、こう言います。
「太地の人が南氷洋捕鯨に出て行った事実ひとつをみても、今までの私のような浅い知識では〝古式捕鯨の伝統があったから南氷洋へも行くようになった〟としか言えませんでした。でも、本当はそう簡単じゃない。古式捕鯨の衰退後も半世紀にわたって、遠くアメリカ、カナダ、オーストラリアの海へ出稼ぎに行った歴史があったからこそ、南氷洋がオープンしたときに出漁が可能だったんです。海外移民の歴史を知ることで、捕鯨の歴史を、太地の人を、少しでも深く理解できたのかな、という気持ちになります」

 こうした〝掘り起こし〟の仕事には、併しそれ相当の困難が伴うものです。以下は想像ですが……〝頼んでもないのに、どうして恥ずかしい過去を蒸し返そうとするのか〟〝貧しさのために家族が離ればなれになった悲しい記憶をあえて表にしようとするのはどうしてか〟そうした声が上がったとしても、まったく不思議ではありません。。。

「刃刺の像」と調査捕鯨船・第一京丸(812.08 t )の展示場


 そんな想像をめぐらせていると、ふと櫻井さんのもらした言葉が甦ってきました。それは仕事の用事で久しぶりに電話をした時のことでした。
 
「……だから、もう一度『勇魚』を読み返さないといけないな、と思ってるんですよ」
 
 私信なので、それ以上は明かせません。
 ただ、人が〝原点に戻ろう〟と考えるとき、それは何かに揺れているときです。

 ここで、さらに想像力の旅へ出てしまうこと、ご寛恕ください。櫻井さんの、とりわけアメリカ移住を決断した太地の人々へ寄せる心情に、小生のごとき根なし草の旅人(デラシネ)の、どこかが共鳴してしまうのです。
 太地町の歴史を調べ、資料を収集・整理し、表現し、世界に散らばっている太地人と交流を重ねていく櫻井さんの仕事は、クジラを追い求めてアメリカへ渡った自身の姿と重なっていたはずです。こんなにも運命的な仕事はそうそうあるものではない、と思うのです。

 下手な小説より小説っぽいですよね。

 自らの来し方が、憧れていた町の歴史と一体化する瞬間は、もしかしたら……燈明崎の崖上がいじょうで青春の日に灯った志と、漁師町・太地の人々が持っていた野心とが、二重写しになる瞬間でもあったのではないか、とも思うのです。胸の奥底にまだ、あの頃に抱いた〝野心〟はあるか、自分にはまだ〝若さ〟が残っているか、という問いかけとともに。

 こんなことを書いているなんて、どうかしてしまったようです。

 本編と追記の拙文を、何とか一つのテーマで貫こうと、ここまで書き進めてきました。換言すれば、太地町の捕鯨と移民を題材にしながら、裏のテーマ(裏拍)を浮上させたいと思い、ここまで言葉の切れ端を散りばめてきました。……それら言葉の切れ端は全部、どうやら小生の願望だったようです。ジブリ映画『君たちはどう生きるか』ではありませんが、皆さんも、自身の生き方を模索するとき、海を渡っていった太地の人たちと同じように考えるのではないでしょうか。自分の能力を生かす場所を求めていくのではないでしょうか。その場所で生きていけるように技術を磨こうとするのではないでしょうか。自己欺瞞に気づかないふりをすることなく、まっすぐに。

 ……名残惜しいですが、今回の旅も、終わりのときが来たようです。
 
 帰路、櫻井さんはこんなことを話してくれました。
「でもまだ分からないことだらけなんです。太地浦では、六鯨といって6種類のクジラを捕ったと言われてますが、それは他所へ出すためのクジラであり、言ってみれば商品アイテムでした。太地の人は捕鯨だけで生活し、クジラしか食べてなかったのかというとそんなわけはなく、同時に畑仕事もしていたんです、昔も今も……。こうしたことは、ほとんど知られていませんよね。それは私にとっても同じで、太地の人たちが何を食べていたのかさえ、よく分かっていないんです。山に囲まれた太地は、耕作に適した土地が少なく、歴史的に米が穫れませんでした。ものの本には『うけじゃ』と言って、芋と米を混ぜて炊いたものを食べていたと書かれていますが、確実なことは分かってません。調べれば調べるほど、自分の知らないことばかりだなと思います」

 太地町の移民を題材にした、この追記の結論は「海外へ移民した先人の知恵に学び、日本で暮らす価値観の違う外国人とどうすれば分かり合えるか考えよう!」といったステレオタイプの締めにはしません。 

 他者と分かり合うことも大切ですが、日本に生まれ、日本語を母国語として育ち、今も居住する日本の歴史を、その多角的な側面を、私たちはあまりに知らされていないのではないでしょうか。 


── 夜、「報われることのない仕事」という旅から帰宅する。疲労困憊のなか、パソコンのメールを確認すると、櫻井さんから原稿チェックの返信が届いていた。文面を読み進め、結びの言葉に目が止まる。

「崖の上よりも、どこかの居酒屋で、次にお目にかかる日を楽しみにしております。」

 遠く太地に友人ができたかな。

 そう思えたら、とてつもなくうれしくなって、ソファへ倒れ込むときには少しだけ笑顔になっていた……はずだ。


鹿子沢ヒコーキ

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