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松山・三津浜ビーチグラス物語
【愛媛県松山市三津浜地区】編
①愛媛県を旅したくなる文学ベスト5
『坊っちゃん』夏目漱石
『坂の上の雲』司馬遼太郎
『闘牛』井上靖
『海色の壜』田丸雅智
『旅屋おかえり』原田マハ
②今回の文学旅行は……「海酒」(田丸雅智著『海色の壜』収録)
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*「海酒」は、作者のふるさと・松山市三津浜地区(住吉)の海への想いを描いたショートショート。小道具としてビーチグラスが使われ、それが絶妙な働きをしています。ビーチグラスとは、海に浸食研磨されて角が取れたガラス片のこと。割れたガラス片が丸みを帯びるまで10年単位の時間を要するともいわれます。最近は、浜辺に打ち上げられた欠片を拾い集めて加工し、アート作品やオブジェ・アクセサリーとして販売する店も増えましたよね。
③旅色プラン──定番を満喫しつつ、ひと味違う松山文学旅行〜司馬遼󠄁太郎 田丸雅智 編〜
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想像力の旅行へ
私たちがご案内いたします。
(↓ここからは「だである調」になります)
浜辺に落ちているガラスの破片が、作家の手に掛かると、小さくて短いイマジネーションの虹をつくり出す。そんなイリュージョンを、本作は見せてくれる。ふるさとの海を思い、描いたという掌編の味わいは、あくまで苦味がなく、どこまでも瑞々しい。
そんな清々しいはずの海を、見たいと思った。
閉鎖された海水浴場 探したビーチグラスは?
松山の中心市街地から西へ。
道なりに行けば、松山外港の埠頭に突き当たるだろう。
行き着いてみると、そこは小型の商用貨物船が行き交う港湾だった。
目指していた海は、こんな重油の匂いがする海ではない。
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その海は、近くに鉄道が通っているはずだ。それもシンプルな鉄道が。
道を戻り、伊予鉄道を探すと、線路に沿って舗装された道路があった。
進路を北西へとる。
クルマのウインドーを開け放つ。
電車からは海が見えるのだろうか。
潮の香りがする。
突然、周囲の建物が途切れた。
左の敷地がぽっかりと空く。
向こうに、青い海が広がっていた。
駅舎が孤独そうだった。
クルマを停める。
空いた敷地は遊園地の跡だという。
かつてにぎわっていたという海水浴場は閉鎖されていた。
岸壁を越えて砂浜へ降りる。
浜辺には人工的なゴミが打ち上げられている。
青く見えた海は、近づくと灰色だった。
遠くに人影があった。
ウェディングドレスを着たモデルさん。
スチールカメラや反射板を持つスタッフたち。
結婚式場の広告に使うためだろうか。
もし宣材なら、そのヴィジュアルイメージには嘘が入っている。
浜辺にいるのは、彼らとボクだけ。
かつては海水浴場だったが、今はもう泳ぐ人はいない。
結婚式の広告宣伝に使う海は
寂しさをたたえていた。
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衰退する地方。対策にはアレとコレが必要だ。
そんな上っ面だけの記事を、さんざん書いてきた。
懺悔しよう。もう、うんざりなんだ。
衰退とは、誰にとっての衰退なのか。
公務員だろうか。政治家だろうか。
ビーチグラスを探してみようと思った。
ハイマートロス(故郷喪失)を悲しんだり、
子どもの頃の思い出をなつかしむだけではなく、
ちょっとだけの勇気をもって、
無理することなく自然体で、
少しずつだけど手を掛けて、
今のまちと人間関係を良くしていこうとしている若者たちを。
松山城から西北西に3㎞ほど行くと、多くの人からいまだ三津浜と呼ばれる地区がある。正式な住所名は「住吉」に変更されたが、以前の名称に愛着を持っている人、あるいは新しい住所名とともに街にやってきた若者たちがここにはいる。
各人の背景はさまざまだ。三津浜が生まれ故郷の人。東京でのサラリーマン生活を脱して移住して来た人。瀬戸内海の島に生まれ全国を放浪した後にアメリカに渡り、戻ってきた人。同性の友人を訪ねた旅だったのに、ここで出会った男性と結婚してしまった女性──。
彼らのたたずまいは、肩の力を抜きなよ、と言っているようだった。
公務員でもない。NPOでもない。
三津浜クリエーターズである。
練や 正雪(しょうせつ)店主
三津浜クリエーターズ 代表
酒井正雪さん
(酒井さん)── 今は住吉という地名ですが、このあたりはもともと三津浜町と言って、お城下とは極端に別れていたんです。「城下のもんが何言いよんぞ」という感じで、独立した文化を持っていたんですよ。それが、いつの間にか(*昭和18年8月)松山市に合併された感じなんで。。。
商売のほうは僕で三代目です。祖父の代から〝くずし屋〟をやりよったんですけど……くずし屋とは、蒲鉾屋さんのことです。オヤジが継いで、いろんなところを吸収して、このへんではちょっと大きな会社にしたんです。だけど、共同経営は、一つうまくいかなくなると、ちぐはぐになってゆく。それで解散しました。だからもう、俺一人でやろうか、と。今年で7年目に入ります。
三津浜クリエーターズは5年目です。きっかけは、商店街の道をアスファルトからインターロッキングに替えるときに、みんなで落書きをしたことでした。アーティストを呼んで。それがまちの人に受けたんです。で、商店街会長のヤングさん(当時)が20万円をポンと渡してくれた。道路が舗装されてきれいになった記念に「何かしてえくれ」って。それでやったのが三津浜珍踊りです。
コスプレしながら昭和歌謡に乗って踊る──そのイベントを開催するまでの過程で、それまでなら絶対にありえんような、水と油の団体が一緒になって協力してくれたですわ。僕らは知ってるけん、本当に協力してもらえるか、おっかなびっくりだったんですけど、よそから来た何も知らない仲間たちがやりよったんです。そんなこと知らない連中が。まちおこしの基本、よそ者、わか者、ばか者がそろったんですわ。おちぶれていく一方のまちの中に、小さな光がぽっと点ったんです。
じゃあ、次に、という感覚になりました。だけど、珍踊りでまとめ役になった子が人間関係でぎくしゃくするのがわずらわしくなって「もうできません」と言い始めた。これで終わったら面白くないと思って「僕の責任でやります」って言ったんですよ。それで立ち上がったんが三津浜クリエーターズなんです。
(隣にいる)この田中君は、とぼけた顔ができる参謀です。彼がマスターをしているカフェは丸6年になりますかね。そのカフェは毎年5月くらいから、名物のかき氷を目当てに遠くからお客さんがやって来て、長い行列ができるんです。7月、8月は、僕らでも食べられんようになる。このまちの風物詩になっています。
(ヒコーキ)── なんでまた、そんなに人気が出たんですか?
(田中さん)── マスターの笑顔かな。
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革職人 リテラ
寺阪司さん
(寺阪さん)── 三津浜の物件を見つけたのは、空き家と移住したい人とのマッチングです。行政がお金を出して××××合同会社がやっている……空き家バンクのようなものです。1階が店舗スペースで、奥と上が住居スペース。それで6DKあるんですよ。こんなに広い間取りをこの金額で借りられるところは、ほかにありませんでした。
実はね、バス釣りの部屋もあるんです。(指をさして)そこなんですけどね、ルアーを作る作業場です。三津浜に移住したのは、正直、半分、釣りありきなんですよ(笑)。理想としては、もう毎日釣りをしていたい。僕の中では、晴耕雨読ではなくて、勝手に晴釣雨作と言っています(笑)。晴れた日には釣りをして、雨の日には仕事をする。毎日、釣りに行けるような場所を考えると、ここはため池が多くて晴れが多い地域なんですね。
瀬戸内は雨が少ないんですよ。一方で松山市内は都会だから何でもある。そこから少しはずれたところには自然がいっぱいあって、海もキレイ。それで、この金額ですよ。物件を探していて、もう即決でした。僕は奈良県の出身で、奥さんは岡山県。お互いに、いつかは西に帰りたいよね、と話していたんです。
職人としての技術は独学です。はじめは人材派遣会社で営業をしていました。僕、池袋エリアの担当で、ヒコーキさんのいるところにもよく行きましたよ。サラリーマンは丸5年しましたけれど、50歳60歳になったとき役職に就いている自分が想像できなくて、自分のやりたいことは何やろかと考えたんです。結果、行き着いたのが「物作り」でした。
それで靴職人の知り合いが開いている靴教室に通うようになって、まず革靴に出合ったんです。しかし、靴は奥が深すぎて自分にはできないなと思い、ミシンを買って趣味程度でバッグ作りを始めたところに東日本大震災が起きて。。。
人生は一回きりやし、好きなことやろうと思って会社を辞めました。そして、ある職人さんから作業場を間借りさせてもらえることになったときに、近くのバッグ修理屋さんが求人していたのを知りました。そこに顔を出したら、縁あって勤めることになり、靴とバッグの修理をやりだして……だから、ほとんど独学です。
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N’s Kichen & labo
小池哲さん・夏美さん
(小池さん)── こうしてパン店をやりはじめて丸5年になります。前職は、松山市役所の職員でした。三津浜に引っ越してきて正雪さんと一緒にまちづくりの活動に参加させてもらって、公務員で安定した収入はあるかもしれないけれど、一緒に商売をして暮らしていくほうが楽しいかなと思ってしまったんですよね(笑)。
勤めていたときは、週に1回だけ店を開くかたちでした。それでもお客さんがついてくれて、店のオープンを待ってくれる人もいて、そういった状況で3年半やってきたんです。いずれはお客さんが並ぶこともなくなるだろうな、と思っていたんですけど、ずっと来てくれていて。。。
地域のニーズもあって、当時の商店街の会長さんやお客さんからは、もっとお店を開けてという声をいただきました。でも、当時はパンを焼くのが奥さん一人だったので、ぎりぎりの状況でもあったんです。
子育てしながら、僕の母も同居してるんですよ。そういう状況の中で、これ以上お店を開けるのは無理だと。この際、僕が勤めを辞めて、ここで店をやろうかと。良いタイミングだったんです。
以前は松山市内に住んでいました。当時は、ここの商店街も……今はお店が増えてきて、外からも「三津っておもしろいよね」と言ってもらったりするようになったけれど、当時は「なんで三津なん?」って言われたものです。
(奥様・夏美さん)──三津浜に引っ越したのは、病気の義母を引き取ることになって、もうちょっと広いところに移りたいねって話していたタイミングだったんです。
それまで週1日のパン店を開店していて、ここをアトリエのようにするつもりだったんですよ、本当は。ガレージセールをやりながら、イベントでパンを販売するようなことができればいいかなと思っていました。パン屋さんをしようと思ってここに引っ越して来たつもりはなくて……
でも正雪さんはじめ、皆さんが「ここに場所があるんだから、もっと店を開けたらいいのに」と言ってくれて、背中を押してくださったんです。まだ毎日営業はできなくて、週4日です。そうなってから2年です。
(酒井さん)── 奥さんの笑顔にね、ここのもんはみんなやられとんのですわ。
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入り江の
静かな海へ寄せて
さまざまに発色しようと希求する
ダイヤモンドじゃないけれど
芯のしっかりした
濁りなきビーチグラスたち
下手な詩だ。
![](https://assets.st-note.com/img/1729850663-xH8nMzwBPRDO2KTuZNaL1CIY.jpg?width=1200)
(ここに描かれた情景は取材時のものです。いろいろあるけど、当時の気持ちを思い出してもらえたらと考え、あえて修正せずに掲載しました)
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