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太地の海に匂いはない

【和歌山県】編

 この旅には、出会いがありました。そのため、本編と追記の2本をご用意いたしました。一泊二日の行程と思ってお読みいただければ、さらに想像力の旅を楽しめるはずです。

 さっそく、出発しましょう。


①和歌山県を旅したくなる文学ベスト5

『深重の海』津本陽
『鯨分限』『巨鯨の海』伊東潤
『岬』中上健次
『補陀落渡海記』井上靖
『三熊野詣』三島由紀夫

②作品紹介

 津本陽『深重の海』集英社 / 伊東潤『巨鯨の海』『鯨分限』光文社

 いずれの作品も、明治11年の暮れに起きた、太地鯨組による未曾有の海難事故を題材にするフィクション。当時の記録によると、100人以上が行方不明になった(うち8人は神津島にて救助)。のちに「背美流れ」と呼ばれる、この事故によって日本の古式捕鯨は事実上の終焉を迎える。両作品で異なる描写を生む太地の海では、現在も生活の手段としてイルカ漁が続けられており、国際的な論争の的にされることがある。

③旅色連載との繋がり

 古式捕鯨発祥の地へ 和歌山県太地町 編

https://tabiiro.jp/plan/1889/

 貴重な体験へ
 私たちがご案内いたします。


(↓本文は「だである調」になります)

1

「太地の海は、匂いがしない」
 その人は、初めて太地の海に触れた時の感慨を、公民館の一室でこう表現した。当時、まだ高校生だったという。

「それまで海の匂いだと思っていたものは、人が出すゴミや魚の死骸、船底から溶け出た化学物質、ディーゼルエンジンの油や燃料、いろんなものが混ざった匂いだった。太地に来て、それがわかった。熊野の海は匂いがしない」

 それは青春18切符を使った旅だった。ある一冊の本に感動し、憧れた海への旅路だった。岬の崖上がいじょうに降り立ち、視界に広がった蒼海は、自身の暮らす岡山の内海とはまったく違っていた。

「逆に言うと、太地の海は、僕にとって自然すぎたんです」

 その高校生は、長じて今、太地町の教育委員会に、歴史資料室の学芸員として勤務している。海と人間の関係を研究する専門家として。
 その人、櫻井敬人さんは、太地町とクジラに魅せられた人だ。今回の旅は、その櫻井さんから直接、古式捕鯨についてレクチャーいただけるという、実に贅沢な旅なのである。

太地の海


2

 紀伊半島の東南部。世界遺産・熊野三山の霊場をくだり、マグロ漁で有名な那智勝浦の南に位置する人口わずか3000人の小さな町。ここにはかつて、想像を絶する人間の営みがあった。古式捕鯨と呼ばれる漁である。

 日本人がクジラを食していた痕跡は縄文時代にまで遡ることができるが、網掛け突取法と呼ばれる漁が始まったのは、ここ太地町からだという。今から約340年前、17世紀半ばに和田角右衛門頼治という人物が考案したとされ、その漁法は明治初期まで続けられた。

 それは「鯨組」と呼ばれる、組織された集団による漁だった。沖をはるかにのぞむ岬や山頂に「山見」と呼ぶ見張り番を置き、北東から潮を吹いて来るクジラを見つけると、のろしを上げて仲間に報せる。すると、那智湾に展開した20艘を超える手こぎ舟(鯨舟)が一斉に動き出すのである。

 鯨舟には、それぞれに役割があった。クジラを網に追い込み、銛を打つ勢子舟。網を張る網船。捕獲したクジラを運ぶ持左右舟。一艘あたり10人から15人が乗り込んでいる。その鯨舟にはそれぞれ、極彩色の装飾が施されていた。海上にあっても、何の役割を担う舟がどこにあるか見分けられるようにするためだ。太地の鯨舟は、とりわけ煌びやかだったというから、大海原に展開した船団の姿には、心躍るような勇壮さがあっただろう。

紀州太地浦鯨大漁之図(部分 太地町立くじらの博物館所蔵)


 全体の指揮を執るのが「刃刺(はざし)」と呼ばれる者で、銛を打つ役目を担っていた。その刃刺の中で最も上位の者を「沖合(おきあい)」といい、勢子一番舟に乗り込む。太地では、勢子舟だけで15艘を超えた時期があった。
 その勢子舟がクジラを網へ追い込み、巨体めがけて銛を投げ込む。剣を突き刺し、弱らせていく。クジラは死ぬと海中へ沈んでいく。だから、死んでしまう前に、弱ったクジラを舟に固定せねばならない。そのとき「刺水主(さしがこ)」と呼ばれる何人もの若衆が小刀をくわえて、海に入っていく。彼らは何をするのか。
 最初に泳ぎ着いた刺水主が、クジラの背によじ登り「ハナを斬る」のである。クジラの噴気孔に腕を差し込み、2つの孔を仕切る肉壁を小刀で裂き、左右を貫通させる。そこに持左右舟につながる縄を通してゆく。全身に血しぶきを浴び、海が真っ赤に染まる。このとき、息を吹き返して暴れ出すクジラもいるという。まさに命知らずであり、この困難な役目を勇猛果敢に完遂した者だけが、リーダーとして刃刺になることを許されるのである。
 漁師町は気が荒い、とは言うが、こうした話を聞くと、納得がいく。
 櫻井さんに案内されて海を見た日は、快晴ではあったが、風が強く波が早かった。こんな海へ出て、なおかつクジラと素手で闘うなど、とても人間業とは思えない。明治の初めまで行われていたという現実は、想像力の外側にあった。

3

 ひと通りのレクチャーと質疑応答を終えると、ちょうどお昼時になった。
「一緒に昼食でもどうですか」
 期待していたとはいえ、お誘いは素直にうれしかった。もっと話を聞きたいと思わせる魅力がこの取材にはあったからだった。

 公民館を後にして、櫻井さんの運転する軽トラックに乗せてもらう。地元漁協が経営するスーパーマーケットでお弁当を買い、外で食事をしようという趣向である。向かった場所は燈明崎だった。崖上である。

燈明崎に復元されている灯台


 ここ燈明崎には、獲物のクジラを見つけた山見たちが狼煙を上げた跡が残っている。沖を遠望できるように、より高い目線を確保するため、石を小高く積み上げた台があった。高さは1.5mくらいだろうか。階段もあり、今は安全のために手すりが設置されている。その台に上ってみる。
 沖を見はるかすと、地平線がどこまでも続いている。白雲の一朶もなく、視界のすべては碧く染まっていた。見下ろすと、海岸線の岩礁に白波が立っている。風だけが強かった。

燈明崎山見跡


 江戸時代に設置されたという、鯨油を使用した灯台も復元されていた。その台座に腰を下ろし、漁協で買った弁当を櫻井さんと一緒に開ける。
「明治11年の大事故『背美流れ』で、太地の古式捕鯨は事実上終焉を迎えました。欧米の捕鯨も、石油の発見によって鯨油の需要が減り、衰退します。一方で食糧確保が目的だった日本の捕鯨は、明治30年代にノルウェー式を採り入れて近代化していくんですが、その間に、太地は海外出稼ぎの町になっていきます」
 弁当を使いながら、櫻井さんの話に耳を傾ける。

 そうしてクジラと太地町の人々との関わりを聞くうちに、ある衝動を必死に抑えなければならなくなってしまった。人が生きるうえで持つ価値観(価値判断)と生活手段(職業)との一致について、〝禁断の質問〟を発する衝動に突き動かされそうになるのだ。
 衝動の背景には、世間を揺るがせたあの騒動があった。太地町に来ればどうしても、クジラ(イルカを含む)をめぐる人間同士の対立について触れなければならない。

4

 気は進まない。
 話は、2009年にまで遡る。
 発端は、太地町のイルカ漁を批判的に描いた映画『ザ・コーヴ』の製作と公開だった(同作はのちに米国アカデミー賞・長編ドキュメンタリー映画賞を受賞する)。映画が米国で公開されると、反捕鯨団体と称するシーシェパードのメンバーが太地町に乗り込んで来、抗議行動や実力行使を始めたのである。
 彼らは太地町に常駐し、地元の漁師がイルカを追い込む湾を監視する。太地町では、住民の安全を確保するため、湾の近辺に警察の派出所を設置し、外国人と見ればだれかれなしに職務質問するようになった。大小の衝突が続くなか、騒動の沈静化を図るべく和歌山県はホームページなどで公式見解を表明したが、抗議行動は収束する気配をまったく見せなかった。映画についても、場外戦が収まらなかった。
 いつになったら抗議行動と称する嫌がらせは終わるのだろう、衝突はなくなるのだろう、誰もがうんざりしていたが、活動家らは次々と来日し、要員を交代させて、抗議行動は2016年まで続くのだった。 

 2016年に何があったのか。
 G7伊勢志摩サミット(2016年5月)が開催されたのである。開催の時期が迫ってくると、にわかに活動家たちは太地から消えてゆき、町は「例外的に静かになった」のだった。

 事ここに至る間際、G7伊勢志摩サミット成功へ向け、単に反捕鯨団体の実力行使という枠を超えて、国際政治における外交・安全保障のハイレベルなネゴシエイトがあった、と推測することは難くないだろう。
 サミットが無事に終わった直後には、アメリカ連邦地裁で、日本とシーシェパードとの和解が成立し、あれだけ激しかった太地町での反捕鯨活動は終わりを迎えるのだった。


5

 まあ、下手な解説は不要かもしれない。
 
 ただ、騒動の波紋は決して小さくなかった。『ザ・コーヴ』の取材手法や反捕鯨団体の抗議活動に対する国内の反発は強く、騒動は日本 VS 西欧のカルチャーギャップを際立たせるだけにとどまらなかった。その後のドメスティックな「分断」の萌芽でもあったように見えるからだ。
 
 あの長い騒動以降、日本国内でも生活信条やイデオロギーによる社会の分断は加速したようにみえる。自分の信じる価値観を周囲に押しつけようとする、議論しようともせず分かり合おうとしない、そうした分断の溝が深まる背後にはSNSの存在とその影響が大きい。
 
 SNSというデジタル空間でのコミュニケーションは、人と人とが分かり合うものではなく、むしろ「私たちは如何に分かり合えないか」を露呈する場となってしまってはいないだろうか。科学的な知見や歴史の積み上げによる常識・知恵に関係なく、自分の信じたいものだけを信じ、そこに合わない他者を排除するキャンセルカルチャーを生む土壌ともなっている。
 
〝世界は一握りのディープステートに支配されている〟といった陰謀論を例示するまでもなく、自分の信じたいものだけを盲信する姿勢は、その隣に「何も信じられない層=不信の層(小生の造語)」を作り出しているようにも見える。大きく、厚く、そして静かに。

 SNSとともに、既存マスメディアに跋扈する人間たちの振る舞いが、この「不信の層」をさらに拡大させている。彼らは、偽善や独善、そして自己欺瞞と向き合おうとしない。あなたの隣にも、こんな人はいないだろうか。


 再生エネルギー・脱炭素こそ地球の環境と人類を救う唯一の手段であるとご高説を垂れながら大排気量のポルシェを乗り回しているテレビコメンテーター。多額の退職金を手にしたのち反原発運動をする元原子炉設計技師。人権派と称して政権批判を繰り返しながら野党から金銭を受け取っているジャーナリスト。経済記事を書く裏で株式の取引をする雑誌記者。自分はコロナワクチンを7回も打っておきながら反ワクチン活動で小金をポッケする医師。


 昔は、こういう自己欺瞞にまみれた人間にはなるな、と両親から教育されたものだ。正直に生きよ、恥を知れ、と。
 上記の人間たちは、しかも自己欺瞞に気づいていないのではない。充分に知っていて、何も信じられなくなっている「不信の層」を利用しようとしているのである。
 世論をリード(主導)しようとする人間の実態が見えてくると、私たちはさらに何を信じて良いか分からなくなる。 

 今、多くの人が、自ら拠って立つ立脚点を、内なる価値判断を、どんな思想・信条・哲学に求めるか、あらためて問われる時代になっているのではないだろうか。

6

 私たちは、まだ燈明崎で弁当をつついている。

 太地町にあって、クジラと人の関わりを研究している立場として、どう言動するか。その言動の軸をどこに求めているのか。櫻井さんに問いかけたい衝動を抑えがたく、どうしようもなくなっている。櫻井さんだから訊きたい、という理由もあった。後述するが、櫻井さんは太地町の出ではない。憧れを抱いていた太地町との縁をつかみ、いろいろな背景と経緯のなかで、否応なく反捕鯨活動の騒動に巻き込まれたのだった。

 迷いに迷っている。

 併し、ついに、はっきりとは言い出せなかった。

 太地町のクジラは、ポリティカルで巨大な、そして触れることのできない「哀しきモンスター」に変容してしまったのではなかろうか。世界を分断するための、道具として。 

その海は、茫々として語らぬ海だった


7

 ここに供養塔がある。
 燈明崎の後、案内された東明寺。
 高さ1mほどの石塔は、1768年に建立されたという。願主・濱八兵衛の名前とともに「亡鯨聚霊塔」と刻まれており、それが供養塔であることが分かる。「懺摩一会 妙典石経」の文字も読める。妙典とは法華経のことだ。石経は経典を刻んだ石のこと。懺摩は仏教用語で悔い改める・赦しを乞うの意。クジラを殺生(せっしょう)していることに対して「ここに法華経を奉納し、一堂に会して悔い改め、罪が滅することを祈る」と解すことができる。

東明寺に建つ供養塔


 日本では、紀州のほかに、高知、佐賀、長崎、山口などの地域で、古式捕鯨はなされていた。いずれの地域にもクジラの供養塔が存在する。クジラを殺すことに対する漁師たちの懺悔の意識について、櫻井さんは貴重な研究を発表しているので、ここでご紹介したい。
 他の地域と異なり、太地だけが鯨舟にきらびやかな吉祥を色彩豊かに描いていたことは前述した。それは一体なぜか? 櫻井さんご自身が手掛けられた企画展の図録から引用しよう。
 
「太地の鯨捕りたちは、クジラが断末魔の苦しみに悶えた末にこと切れると、舟で取り囲んで『念仏称名シテ其ノ寂滅ヲ』とらしめたという。いまわの際にクジラが見たのは、勢子舟に描かれた極彩色の、浄土を連想させる数々の絵であった。鯨捕りたちは、クジラの最期を浄土の景色に包み込むことがクジラを供養することにつながり、延いては彼らが犯さざるを得ない殺生の罪が滅せられることを期待したのではあるまいか。」(2011年12月1日発行『鯨舟:形と意匠』)

勢子一番船のきらびやかな色彩「桐に鳳凰」(土長けい氏 画)


現存する貴重な鯨舟水押(太地町立くじらの博物館所蔵)

 櫻井さんは、太地捕鯨のしきたりに熊野特有の宗教観が表れていると考えている。確かに、舟の役割を識別するためであれば、番号を大書きすれば事足りる。わざわざ絢爛豪華に彩り飾る必要はない。太地浦の漁師たちは、クジラを人間と同じように考えていたのではないか、そんなふうにも思えてくる記述である。クジラを通して人間を知るには、クジラだけを調べていればいいわけではない。視点を縦横無尽に展開して広い知見を駆使し、冷静に人間を分析する目を持たねばならない。櫻井さんの文章からは、その態度がよくわかる。
 

8

 かつて青春18切符で旅をした高校生は、その後、太地の近くだからという理由で三重大学に進学した。もっと勉強したいと名古屋大学の博士課程へ進むなかで、アラスカのイヌピアック(先住民)ファミリーにつたない英語で手紙を書いた。すると、何と返事が来て、ポイント・バローで生活を共にすることになった。英会話能力ゼロだったが、そこで鯨組のルールや掟、道具の使い方を体得した。クジラの解体も経験した。マサチューセッツ州のケンドール捕鯨博物館でのインターンシップを経て、同博物館がボストンの南にあるニューベッドフォード捕鯨博物館と合併した2001年に、アシスタント・キュレーターになった。その博物館に、当時の太地町長が見学にやって来て、彼はヘッドハンティングされる。日本へ戻る直前、交際していたアメリカ人女性と結婚。時は2006年になっていた。
 彼の、クジラをめぐる物語は、高校2年の時にC・W・ニコル『勇魚いさな』を読んだことから始まった。青春18切符での旅は、同作に描かれた、素手で巨鯨を仕留める男たちに憧れてのことだった。青年の入り口に立っていた彼は「海を通して人間を見ていきたい」と思った。
 その目的をもたらしたのは、一冊の本だった。
 
 
 翌日。
 独りで梶取崎かんどりざきへ向かった。
 ここも山見たちが狼煙を上げた場所である。
 
 崖上に立つ。快晴だった。
 眼下に広がる海岸線は、リアス式の複雑な景観を魅せている。北東に突き出て見える陸地は那智勝浦だろうか。この地表の彼方を覆い尽くす大海原では、今も冬になるとクジラが通って往く。そのクジラは、いにしえから現代まで、あらゆる意味で人間に利用され尽くしている。
 
 あえて空を見ようと思った。
 見上げると、青空に吸い込まれるようにして、近代的な灯台が伸びていた。白い塔の周りを、潮風に乗ってトンビがグライダー飛行している。
 
 その潮風に、匂いはなかった。



附言:2019年6月、日本はIWC(国際捕鯨委員会)から脱退した。

 

下記につづく


鹿子沢ヒコーキ




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