カッコいい 「第二の人生」
【広島県広島市】編
①広島県を旅したくなる文学ベスト5
②今回の文学旅行は……
村上龍『走れ!タカハシ』 講談社
山際淳司『スローカーブを、もう一球』 KADOKAWA
重松清『赤ヘル1975』 講談社
飛騨俊吾『エンジェルボール』 双葉社
1番ショート高橋慶彦が走ると何かが起きる。抑えの切り札・江夏豊の胸中には強烈な自負心が脈打っている。球団史上初めて優勝した年に東京から引っ越してきた小学生が読者の涙腺を決壊させる。魔球をひっさげプロ野球選手になったトラック運転手のファンタジーで新人作家がデビューする。ボクたちを元気にさせてくれる野球は、カープでどうぞ。
③旅色プラン──昭和の歴史と野球を満喫する旅 広島編
想像力の旅行へ
私たちがご案内いたします。
(↓本文は「だである調」になります)
カープ・レジェンドへ会いに
広島の文学旅行と言えば、もちろんカープなんである。
ただし、中国地方の出身でない者がカープファンを自称する場合、そこにはイヤらしい計算があると思っていい。周囲の者に、理知的でスマートな印象を与えられると思っている節があるからだ。
だってね、そりゃそうでしょ。ホーム球場は見事なボールパークで明るく、そこに〝カープ女子〟などとプロモーションを仕掛けられて可愛い女性ファンがいっぱい、野暮ったくて垢抜けなかった赤ヘルもキラキラしたメタリックに変身しているではないですか。
かつては、とてつもなく地味で弱く、広陵高校のグラウンドを貸してもらうほどめちゃめちゃ貧乏で、それでいて足腰が立たなくなるほど練習するパワハラ球団だったのですよ、カープは。ホームは狭くてボロボロの市民球場、ボタンのないユニホームはパジャマみたいで、アイコンの赤色もダサかったんだ、これが。
ファンだって、昭和の野球はヤジも厳しく下品で、それも「かばちたれるな!」広島弁だから、お世辞にも「柄が良い」とは言えなかったんだから。。。
そんな黒歴史を知ってか知らずか、県外者にもかかわらず、今になってカープを「好きだ」とか言い出すあたり、実に姑息であやしいのである。それが男性なら、単にモテたいだけで言っているのだろう。いずれにしても底の浅い連中である。
ここまで落としておけば大丈夫だろう。
カープが好きだ。
妻は森下暢仁投手の大ファンだ😢
理知的でスマートという印象は併し、今の明るいカープがもたらしたイメージでは、決してない。まして森下暢仁投手の爽やかさだけで醸し出されているのでもない。それは、第一次黄金時代に築いた野球スタイルを、文学が題材として追いかけた結果でもあるのだ。
村上龍は、1番ショート高橋慶彦のスピード感あふれるプレースタイルに惚れ込んで文学をインスピレーションした。山際淳司は、知性あふれる筆でスポーツノンフィクションの新しい地平を開いた。スポーツ音痴だったと言われる山際が打ち立てた『江夏の21球』は、超絶な技量に裏打ちされた江夏豊のプライド、のちに名監督と呼ばれる古葉竹識の人心掌握術と采配、そして衣笠祥雄という異形のスターが織りなす、個人と組織の相克を描いていて、とてつもなくカッコ良かった。まぎれもなくスポーツノンフィクションの金字塔である。
今回の旅は従って、どうしようもなく、ファン目線になってしまうのである。
この文学旅行で、今から会いに行く人は、知る人ぞ知るカープのレジェンドである。なぜならば……
ここでちょっと記録をひもといておこう。広島東洋カープの優勝回数は、リーグ優勝9回、うち日本一3回(2023年末時点)である。そのカープにあって、最も多く優勝に関わった人物が二人いる。
一人は、球団の永久欠番8を持つ山本浩二である。言わずと知れたミスター赤ヘルだ。
もう一人は、ミスター赤ヘルの輝きに比べれば、いくぶん地味かもしれない。だが、ファンから言わせれば、いぶし銀の魅力を放っていた。しかもその人は、二軍監督の時に優勝をしているので、優勝回数だけなら山本浩二よりも多いのである。
その人は、すでに放送局の野球解説者も退き、現在、広島市内で焼鳥店を経営している。そうしたカープのレジェンドに、人生の第二幕の作り方について伺いたいと切に思ったのだった。
友人のように声を掛けられ絶句する
その日は、ドシャ降りだった。
寺町電停を降り、中低層のビル群を横に見ながら、人通りの少ない街を進む。このあたりは、核となる繁華街が東へ移るにしたがい、路面電車が地域住民の生活を支えるレトロな街になってしまったという。そんな街に、炭焼やきとり処「カープ鳥きのした」はあった。
まだ営業前である。
お店の入口扉を開ける。
店内で男が一人、広い背中をこちらに向けて座っていた。店奥に設置されたテレビを観ているのである。その人は、そのままの姿勢でこう言った。
「マエケン、ホームラン打ったね!」
偶然にも、その日はカープのエースだった前田健太のメジャーデビュー戦が行われていた。その試合でマエケンは、投手でありながら見事なホームランを打ち、勝利投手になったのである。その試合中継をテレビで見ながら、その人は待っていてくれたのだ。
旧知の友人のように話しかけられて舞い上がってしまった。リアクションしようとするが、うまく声を出すことができない。次の瞬間、その人はテレビから視線をはずし、こちらに向き直って微笑んだ。その顔は、現役当時と同じヒゲをたくわえていた。
2番セカンド、木下富雄さんである。
大柄でガッシリとした体躯がスタジアムジャンパーを通しても伝わってくる。いつもとは違う緊張を感じながら、まず自己紹介をして、事前にお伝えしていた取材目的とテーマを確認すると、奥の個室に招かれたのだった。
──早速ですが、木下さんの現役引退は、どのようなかたちだったのか、教えてもらえますでしょうか?
木下(以下、太字部分同様) 私の場合ね、引退が衣笠さんと一緒になったんです。でもね、最初は違っていたんですよ。当時の阿南監督に「衣笠が引退するから、お前にはもう一年頑張ってもらわないと困る」と言われていました。
──はい。
ところが、その三日後ですよ。球団代表に呼ばれて「身を引いてくれんか」と言われたんです。「実は次の監督が決まっている。そこにお前がいると、若い選手が1人、入れないんだ」という。え? と思ったよね。でも、そのときに「コーチの椅子は用意してあるから」と言われたので、首がつながったっていうことなんです。
──ジェットコースターというか、急転直下ですね。
それを思うと、僕の野球人生は運が良かった。現役引退後もコーチとして残ることができ、その後も、野球解説の仕事に恵まれました。60歳までプロ野球の世界に携われたことを思うと、幸せな野球人生だったと思います。現役のときには、引退後のことなんて考えるのも嫌だったのに。。。
──最近は、普通のサラリーマンも、リストラや早期退職の募集があったり、さらには倒産・失業もあって、第二の人生をどう切り開くか、切実な問題になっています。木下さんからアドバイスはありますか?
第二の人生は……プロ野球選手にとってものすごく大変なんですよ。現役を引退したあと、コーチの仕事がある、解説の仕事がある、そういう人はごくわずかなんだよね。選手時代に将来のことを考えると暗くなったものです。だから考えるのも嫌でした。プロ野球界の年金制度は、破綻しましたからね。
──球団側から斡旋があるとか、何らかのサポートはないものなんですか?
そのあたりはプロ野球機構も考えていて、決して生活できる金額ではないけれど、アマチュアとの壁をなくしていく方向へ動いていますね。元プロ野球選手であっても、アマチュアの資格を取れば、高校や大学で教えられますよ、という仕組みができてきた。年俸の高額化だけでなく、やっぱり別の面からも、日本のプロ野球を魅力あるものにしなくちゃいけない。良い人に出会ってね、道を付けてくれる人との出会いがあればいいけれど。。。出会いは大事だし、人脈も大事ですよ。
──こちらのお店の経営は、どういう経緯だったのでしょうか?
これはね、たまたま創業者で……当時、市内に14店舗持っていたのかな、そのFC(フランチャイズチェーン)のオーナーが、女房の従兄弟なんです。僕が女房と付き合っているときに、もちろん携帯電話なんかない時代だったから、彼に迎えに来てもらったりしてね。彼がまだ学生時代でした。そんな頃からの付き合いなんです。
──いや、いや、そうだったんですか(笑)。
この店は、もともと「野球鳥」という名前だったんだけど、ご主人が倒れられて、空き家になっていたんです。それで、そのオーナーから「キーちゃん、ここ空いてるんだけど、せん?」って言われた。長男に訊いてみたら、やりたいと言うんだよ。
──ご長男に、ですか?
そう。長男は大学で野球をやっていたんだけれど、一年で辞めてね。広島に帰ってきてから一生懸命に就職先を探していたのよ。女房のツテ、俺のツテ、いろんなところに電話をしてね。そして、ある家具屋さんに拾ってもらった。半年くらいで売上げのトップになったのかな。私は自分の父親が商人だったから、そういうのもあったかもしれませんね。長男は、大学を卒業するときに、本当は焼肉屋を開業したかったんだけど、狂牛病の騒ぎがあってあきらめていたんだ。
──狂牛病……ありましたね。脳が溶けるとか何とか騒がれて。。。確か2000年代のはじめでした。飲食店業界にとって大打撃だったことを覚えています。
うん。そんなことがあったから、長男に訊くと、やりたいと。それでここのオーナーに長男を預けて修業させました。同時に私も、当時していた野球解説のかたわら、長内孝(91年までカープに在籍。2006年に「野球鳥」に加盟)の店を手伝いながら勉強させてもらった。広島の街中でも、ここは人通りが少ないんだけど、暖簾を分けてもらって2007年6月1日、55歳の時にオープンしました。
──55歳ですか。。。
当時、野球解説者をさせてもらっていたので、何とか生活できていました。解説を終えたあとに、ここに来て「ああ疲れたぁ」なんて言いながら着替えて、店の〝ボランティア〟として働きました。解説のないときは、お店で生解説しながら、配膳したりしてね。飲食店の経営は、人件費が一番高いわけで、俺と母ちゃんには給料を払わないようにする。それで長男は独立資金を貯めて横川店を出したわけ。屋号は同じ「カープ鳥きのした」なんだけど、もう会社は別にした。
──球界にいるときに、引退後を見越して、準備するようなことはあるのでしょうか?
ないでしょう。考えなかったね。僕はジャイアンツファンだったから、長嶋茂雄さんに憧れて野球をしていたんですね。カープに入って最初の年は最下位だったんだけど、うわあ、すごいなあって傍観者でした。憧れの人と一緒にグラウンドに立ってプレーをしている。セカンドで長嶋さんにボールタッチするのがうれしくてね。僕にとってプロ野球は夢のまた夢で別世界だった。そう思っていた場所に立っているのだから、もう楽しくてしょうがなかった。だいたいサイドビジネスなんて、する時間がないよ。
──職業としてのプロ野球選手については、どのように考えていたのですか?
……プロ野球への憧れはあったけれど、本当のことを言うと、商社に入って海外で仕事をしたかったんだ。だけど、大学受験に失敗してね、挫折しました。
──春日部高校は進学校ですからね。
大学受験に失敗して落ち込んでいるときに、高校の監督から「もう一度野球やれよ」と押されて、大学の野球部に一緒に行ったんですよ。そうしたら当時の監督が「あのピッチャーの球を打ってみろ」って。見ると、すっごい速いボールを投げている。8ヵ月練習をしていないのに、たまたま運が良くて、芯でカーン、カーン、カーン。即一軍登録。それでまた野球が始まっちゃったんだよね。
もうひとつの『江夏の21球』
──〝また始まってしまった〟という野球のお話を、お訊きしてもいいでしょうか。初優勝の時は……
初優勝の1975は、あまり思い出がないんよね。監督がルーツになって、彼が広島を変えた。だって、その前は3年連続で最下位ですよ。そのチームをガラッと変えた。帽子も赤にして、選手も三分の一くらい替わった。レギュラーメンバーを固定した。僕らは一軍にいるけれど、ほとんど出番がないわけ。ときどき代走だったり、守備要員で、というくらいで。初優勝は、確かに広島市民の驚きでもあったし、野球界の驚きでもあったね。
──その年の出場は29試合でした。
うん。そのくらいだよね。だから、うれしかったかと訊かれれば、そうでもないんだよ。優勝というのは、大学のときもそうだったけれど、自分が活躍して優勝したらうれしいんだよ。ベンチにいるだけで、うれしいかといったら、今シーズンが終わった!といって喜んでいるとか、まわりが喜んでいるから一緒になっているとか、ね。そんなもんだよ。
──79年の優勝は、ぜんぜん違う感慨をお持ちですか?
プロ野球の1年は、勝って終わらなくてはいけないんです。
1975は初優勝して、それから平和大通りのフラワーフェスティバルが始まりました。でも、日本シリーズでは、阪急ブレーブスに一つも勝てず、終わったんですよ。最後の最後で、こてんぱんにやられた。その次に優勝したのが1979だよね。
──(ちょっと、とぼけて)79年の日本シリーズは……近鉄バッファローズが対戦相手で。。。
江夏の21球ですね。
──ですよね! セカンドを守られていましたよね!
あのピンチ、自分で作ったんよ、江夏さん。
──えっ?。
クイックしないから簡単に盗塁されて、キャッチャーの水沼さんも投げなきゃいいのに投げてワンバウンド。(高橋)慶彦も止めればいいのに止められずエラー、ランナーはサードへ。次打者も四球で、代走に出てきた吹石一恵のお父さんがまた盗塁。当たっている平野を歩かせて満塁。江夏さん、あれ、自分で作ったんよ。
──(苦笑)。
別のピッチャーが作ったピンチに江夏さんが登場して、ピシッピシッと抑えたというなら格好いいよ。そうじゃないんだから。何してるの~、何とかしてよ~って感じだったんですよ。もちろん、江夏豊がいたから優勝できたんだけれどね。
──マウンドに集まったときは、何を話していたんですか。
俺は話してないの。はあ~(ため息)という感じ。慶彦は青い顔しているし。ボール飛んでくるな、と思ってたんじゃない? 慶彦はこの年のMVPだよ。スイッチヒッターに転向して、前年くらいから出てきてね。スピードがあって、新鮮だった。
──その高橋慶彦さんが青い顔をしていた?
リーグ優勝の時も、2つくらいエラーして、江夏さんから「慶彦! 何っしよん!」って怒られて、ね。そのときは、たまたま僕のところにハーフライナーが飛んできた。パッとジャンピングスローしてダブルプレーで終わったのよ。あの時も慶彦、真っ青になっていたなぁ(笑)。
──翌80年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズ(2年連続で対戦相手は近鉄バファローズ)では優秀賞をお取りになりました。
最後の第7戦だよね。やることなすことすべてがうまくいった試合だった。6回裏に同点打を三村さんが打って、セカンドに代走が出て、そこでピッチャーが鈴木啓司さんに代わった。このシリーズでは、俺は後半になって出だしたの。4戦目、5戦目から。で、ラッキーボーイだなと西本さん(西本幸雄。近鉄バッファローズの監督で「悲運の名将」と呼ばれた)は思ったんでしょうね、1球目を良い当たりでファールしたところ、ベンチから出てきて時間を作った。こっちはとにかく打つことしか考えていない。抜かれた球にパッと手を出したら当たってセンター前。それが決勝タイムリーになった。
──子ども心にも〝しぶとい選手〟だなぁ、相手にとっては嫌だろうなぁ、と感じていたことを覚えています。
このときは、やることすべてがうまくいった。慶彦が1塁に出て、走れないなと思ったから、サインは出てなかったけれど、セーフティバント。それをジム・ライトルと山本浩二が還してくれる。自分がランナーで出たときも、自然と身体が動いちゃってる。盗塁のサインなんか出てないんだけど、スタート切ってそのまま行っちゃっている。よくゾーンに入ってると言うけれど、それだったのかなと思う。自分が活躍して日本一になったから格別だったね。優秀選手賞をいただいて、最後の最後で。喜びも大きかった。
──名将と称えられる古葉(竹識)監督は、どんな方だったのですか?
1軍の監督は、まず人望がなかったらできないよ。あの強かった黄金時代、みんな仲が良かったかといったら、決して良くないもん。そういう人間を一つのチームとしてまとめ上げるには、親分肌の人じゃなければできないんだなと思いましたよ。1軍の監督は、すばらしい人間でありながら情に流されない人でなければ、勝っていけないよね。俺とか、慶彦とかに、チームがぴりっとしないと、必ず来るんだから。「慶彦!」って。人柄を見て怒られ役を作る。そうしたマネジメントは本当にうまかった。
──『江夏の21球』では、その古葉監督が交代ピッチャーを用意したことに対して、江夏さんは怒るわけですよね。
ノーアウト満塁のピンチを作った時点で、1点はとられてもしょうがないとベンチは覚悟する。江夏さんは3イニングも投げている。延長戦も考えられる。だから、交代ピッチャーを用意する判断は野球人としたら当然で、誰が監督でも用意させるよ。〝俺を信用できんのか〟って江夏さんは言うかもしれないけれど、ノーアウト満塁を作っちゃったんだから。俺たちからしてみれば「何やってんの!」という感じですから。
──どうして一緒に心中しようと腹をくくってくれないのか、というのは江夏さん個人の感情なんでしょうね。その気持ちを皆さん分かっていたんですか?
分かってなかったと思う。外野の選手なんか、何しよんのか! と怒っていたはずよ。
──マウンドでイラだつ江夏さんのもとへ衣笠さんが歩み寄り「一緒に辞めてやる」と声をかける場面については、どう見えていたのですか。
衣笠さんが江夏さんのところへ行ったのは、もう一回モチベーションを上げるため。もう一回燃えてもらうため。それを山際淳司さんがきれいに書き上げた。山際さんは、人間はすばらしい。文章もすばらしい。対談させてもらったこともあります。でも、あれはきれい過ぎると思うね。俺らからしたら「何してんのよ」という感じだもん。3人で抑えていたら終わってるんよ(笑)。
ひとまず 了
〝うわー!〟
お話を聞きながら、心の中で歓声を上げていました。
後半は完全にファン目線になっています。『江夏の21球』について訊いちゃった。。。
楽しかったぁ──
木下さんのお話でわかるように、プロフェッショナルな個人が集まった場合、同じチームにあってもそこは、個性と個性が衝突する場所なのです。それが組織というものの、本来の姿かもしれません。そうしたプロ集団のまとめ役に、人望がありながら情に流されず、冷酷だけれど勝利のために的確な判断を下すことのできる監督がいる、それが強い組織なのでしょう。
子どもは、遊びを通してスポーツの楽しさを覚えていきます。投球がバットの芯に当たる爽快感、内角のストレートで三振を奪取する征服感、勝利を決めた瞬間の高揚感、それらを身体で知覚していきます。
やがて子どもは、成長するに従い、スポーツゲームの持つ根源的な楽しさを、より高い次元で味わえる才能が自分には備わっていないことに気づき始めます。このとき、青年になった子どもは、ほんの一握りのプロスポーツ選手たちを、遙か高くの雲上に見上げるのです。
プロの世界であるボールパークへ招待された一握りの者たちもまた、ここで飯を食っていけるか、引退後の生活はどうなるか、常に不安のなかで練習を重ねています。怪我との闘いもあるでしょう。それほど厳しい世界であることを分かっていてなお、プロへ挑戦しようとする野球少年たちがいるのは、もちろんそこに「夢」があるからです。なにも高額な年俸ばかりが夢ではありません。才能・技術・工夫と努力で競争を勝ち抜いた末のトップ・オブ・トップからでしか見えない、孤高の景色を見てみたいのです。
〝孤高の景色を見たい〟
どの分野にあっても、人はそうした思いを抱くものではないでしょうか。併し、どんな分野であっても、トップ・オブ・トップへの道に、誰かと仲良く一緒に行けるバスはありません。バスに乗れなかった者たちは、第二、第三の道を自ら選び取り、今はその道をひたむきに歩んでいることでしょう。だからこそ青年は、中年になった今、ボールパークに立つ選手の超絶美技に心を揺さぶられ、ボーンヘッドに落胆して、酒場で選手たちのプレーを語るのです。
「あのときの、あいつはすごかった!」
そんなふうに誰かと語り合うことができれば、挫折はもう充分に癒やされているのかもしれません。ハタから見れば、ただ単に酔っ払って、クダを巻いている、迷惑オヤジにしか見えないときがあろうとも。。。
ぼくたちがプロ野球のゲームに熱狂するのは、ボールパークの真ん中で躍動する選手たちに、果たすことのできなかった自分の「夢」を仮託しているからではないでしょうか。そうです。かつて子どもだった大人たちは皆、胸のなかに自分だけのボールパークを持っているのです。青年の日に仰ぎ見て、ついに辿り着けなかった夢の場所を。
あなたにとってのボールパークは、何ですか?
インタビューを終えると、木下さんは再びテレビを点けた。
すでにパドレス対ドジャース戦は終了し、マエケンのホームランシーンが何度も繰り返される。チームのエース・カーショーが両手を挙げて大喜びしている。メジャーのダイヤモンドを一周してベンチに戻ったマエケンがチームメイトから手荒く祝福される。
《お会いできて感激しています》
精一杯の気持ちを伝えた。
「今は、ただの焼鳥屋のオヤジだよ」
カープ第一次黄金期の、ぼくのヒーローは、そう言って笑った。
鹿子沢ヒコーキ
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