見出し画像

蜚蠊を生かした彼【ショートショート】

私は大の昆虫むし嫌いだ。

形が気持ち悪いのはもちろん、美しいと称される蝶々の類いでさえ視界に入れば悪寒を感じてしまう。生理的に受け付けない。
過去にトラウマがあったということではないのだが、昆虫を好きでいる人の気持ちは全く理解できない。だから、彼と出会った時も、第一印象は最悪だった。

彼との出会いは学生時代の合コン。自分の趣味を話す流れで彼は、意気揚々と昆虫の魅力について熱く語り出した。大学でその昆虫の研究までしているというのだから、それはもう趣味の域を超えているのではないかと私は感じていた。
その話を聞いているだけで徐々に私は吐き気を催したので、逃げるようにしてお店のトイレに駆け込んだのを覚えている。

そしてトイレから出てくると、どうやら友人が私の昆虫嫌いを彼に話したらしく、その彼が深々と頭を下げてきたのだ。
謝る彼に対して逆に申し訳ない気持ちになり、少し飲み過ぎただけとその場を収めた。

そのことがきっかけでそれからしばらく、彼と連絡を取り合う仲になっていた。

私にとって彼は、「昆虫が好きだ」ということだけを除けば、他に欠点が見つからないといって良いほど、人としてよくできた人物だった。
学生でありながらアルバイトでモデルも熟しているというほど容姿も良く、研究などの勉学にも熱心に勤しんでいる。そしてなにより、私を好きだと言ってくれた。
彼の友人関係からの話でも、彼は何事にも一途であるという。それは昆虫以外にもあり、幼い頃から使っている物を大切にしているなど、人柄は尊敬することが多い。

そして私と彼の交際は始まった。

そんな彼がなぜ私を好きになってくれたのかは未だにわからない。大学を卒業してからも彼との交際は続いた。
彼は、私と一緒に過ごすときにも、自分が大好きな昆虫の話は一切してこなかった。私に気を遣っているのだろう。私の方からその話はしないでほしいと、願い出たことはない。彼は私に嫌われないようと必死に私が好きなものを知ろうと努力をしてくれていた。

そして私たちはついに同棲をすることになった。
そんなある日である。

私が一人リビングでくつろいでいると、あの口に出すのもいや昆虫むしが視界を横切った。汚物のような色の身体に細い手足が生えたような影が、エクソシストの映画を想像するような登場の仕方でリビングの隅に鎮座している。

途端、私は悲鳴を上げて、台所にいた彼に助けを求めた。

「はやく殺してぇ!!」

彼は私の側まで来たところで、私が見たもの、そして私が「殺して」と叫んだ理由を悟ったに違いない。

この時の彼の行動は、今思えば当然でもあったし不自然でもあった。

彼はそいつを躊躇ためらいもなく素手で捕まえると、部屋のベランダから外に逃がしたのだ。
その彼の行動の一部始終を、口を開けたまま見つめていた私には、当然の如く理解に苦しむものだった。

ただ私が問い詰める前に、彼の方から口を開いた。

「ごめん。やっぱり蜚蠊かのじょは殺せないよ」

その言葉を聞いて、私は吐き気を催した。
口を押さえてなんとかこらえた私は、禁断ともいえる問いを彼に投げかけることを決心した。それまで心の奥底に閉じ込めていた問いだ。

「……私と昆虫そいつ、どっちが好きなの?」

すると、彼は迷わず答えた。

「僕は、昆虫むしが嫌いな君が好きなんだ。どうして嫌うのか、トラウマがあるわけではないっていう話だし、スゴく興味があるんだ。だけどね、いくら君の頼みとはいえ、蜚蠊かのじょたちを殺すことはできない。だって、君と同じように生きてるんだからね。だから、どっちと言われても選べないよ」

そんな彼の頭を、私はその場にあった雑誌を丸めて思いっきり叩いてやった。昆虫やつらにぶつけられない思いを込めて。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集