小沢健二「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」のダイナミズム
2018年2月14日、21枚目のシングルとしてリリース。翌年リリースの6thアルバム『So kakkoii 宇宙』収録。
岡崎京子による漫画が原作の映画『リバースエッジ』の主題歌として書き下ろされ、同映画の主演を務めた二階堂ふみと吉沢亮が参加している。また一般的に本作の歌詞は、小沢健二がかねてから親交のあった岡崎京子との関係について書かれたものと解釈されている。
確かに本作は、小沢健二と岡崎京子のこれまでのドラマとして捉える余地がある。しかし、それだけだろうか。この曲の魅力は2人の物語にとどまらないところにあるのではないか。
私が本作に感じる最大の魅力は具体と抽象を接続するダイナミズムにある。したがってここではあえて小沢健二と岡崎京子にはフォーカスすることなく、より普遍的な世界観として本作を捉え直す。
流れるようなアルペジオに乗せ、我々は抽象的
な入りから「幾千万も灯る都市の明かりに隠れて暮らす汚れた僕ら」として曲の詩世界に引き摺り込まれる。そして続けざまに具体性を持ってその世界へ没入する。気づけばドラムの軽快なリズムに合わせて駒場図書館から君のいる原宿を目指し歩を進めているのだ。ここまで時間にしておよそ20秒。僅かこれだけの間に計り知れない宇宙が眼前に広がる。
誰しも心が弱る時がある。そんな時、友人の支えによって立ち直った経験をした人は多いのではないだろうか。
なぜ「でも」なのか。思うにこれは僕が僕と友=君へ向けた呼びかけではないだろうか。魔法のトンネルの先には「君と僕の心を愛す人」すなわち「君と僕の理解者・仲間」がいる。だから君と僕は2人きりじゃない。そして今まさに2人きりで何かに立ち向かおうとする君と僕に向けた言葉だからこそ、「でも」なのではないだろうか。「でも君と僕は2人きりじゃない、仲間がいる」と。
ただ、僕はまだそのことをここではまだ信じられていないのだ。
この一節で詩は大きく展開する。これまでは全て過去の回想であり、そこから長い年月が過ぎていることが明かされる。「魔法のトンネル」とは時の流れのことを言っているのではないだろうか。そしてこの一種の叙述トリックともいえる流れから、今度は明確で具体的な回想が始まる。
この特に後半「何も本当のこと言ってないじゃない」と「小沢くん」を切ってみせる「君」の様子から2人の関係性が透けて見える。おそらく僕と君は唯一の理解者であった。だからこそ彼女は君を嫌っていたのだと。
「長い夜」とはなんだろうか。僕と君の関係性を示唆しているのだろうか。それではなぜ「電話がかかってくる」のか。「電話」は2人が会えない状況にあることのメタファーではないだろうか。そしてその中でも僕は歌うことをやめないのだ。
そして話は抽象度を増しながら現在に戻る
僕は歳老いて目もよく見えなくなっているが、その側には昔と変わらず友がいることうかがえる。
続けて僕は「きっと」という。これは過去の君と僕への呼びかけではないだろうか。現在の僕は「魔法のトンネル」すなわち「時の流れ」を経験し、君と僕の言葉を愛す人がいることを知った。疑心暗鬼だった昔とは違い、本当の心は本当の心へ届くことを知ったのである。だから僕は過去の君と僕にいう「きっとわかってくれる人がいる」と。
そして僕の目線は未来へと移される。
これまで助けてもらっていた僕が、今度は君を助ける番になる。時間のトンネルをくぐって理解者に出会った僕はもっと強くなった。だから君に言う「手を握って友よ強く」と。
水は循環する。川の水は海に流れる。海の水は太陽の熱で蒸発し水蒸気となる。水蒸気は空の上で冷えて小さな氷や水の粒になる。その粒が集まって雲になり雨や雪となって空から降る。雨は川や地下水となって陸地へ流れ、再び海に注ぎ込む。その過程で汚れた川の水も再生する。
汚れた僕らも長い夜を経て、魔法のトンネルを抜け、再生する。流れ続けるアルペジオのように君と僕の物語も循環する。そしてその果てに具体の待つ日常へと戻っていく。
結局のところ、本作の魅力はVerse 1に詰まっているのであろう。具体と抽象を行き来し、聴くものを強制的に物語に組み込むことで、いわゆる存在しない記憶を呼び起こす。詩とそれに連動するアルペジオやドラムスの生むダイナミズムに我々は否応なしに引き込まれるのだ。