10代の頃からプログラミングと向き合い続けたエンジニアの、Airitech創業までの歴史
Airitech の創業社長である山﨑 政憲さんに、これまでの経歴や起業に至ったきっかけ、どういった事業を営んでいるのかをインタビューした。前編、後編と山崎さんや Airitech 社の姿を明らかにしていく。
今日はよろしくお願いします。はじめに、山崎さんについて教えて欲しいのですが、少年時代はどのように過ごされていたのですか?
こちらこそよろしくお願いします。
ゲームが大好きな少年でファミコンばかりやっていたのですが、そのうちゲームを自ら作りたいと思うようになりました。
ただ当時は今のように簡単に PC が買えるような時代ではありませんでした。偶然にも、友人が持っていたファミリーベーシックを借り、それでゲームを作り始めました。小学3年生のころですね。
ファミリーベーシックとは
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF
親に PC を買ってもらい本格的にプログラミングを始めました。
そこからはベーマガ (マイコン BASIC マガジン) を購読して、載っているコードをみながらゲームを作っていました。
山崎さんが今でも手元に残している当時のベーマガ
自分の書いたコードでモノが動く、という体験が非常に楽しかったですね。
高校ではプログラミングを書きたかったこともあって情報科を選択しました。ただ同級生にはプログラミング好きという人はおらず、将来役に立つ知識として学んでいる人が大半でしたね。僕はそんな中で一人、授業そっちのけでゲームを作っていました。笑
では、大学では情報系を専攻されたのですか?
大学は地元の大学へ進学したのですが、情報系には行きませんでした。
当時はプログラミングはあくまでも趣味で、公務員になり定時で帰ってその後は自分の趣味 (プログラミング) の時間に充てる、そんな生活がいいんじゃないかと考えていたからです。
大学では化学を専攻していました。授業はそこそこに、家に帰ってプログラミングを飽きずにやり続けていましたね。
化学専攻だったんですね。コンピューターサイエンスの知識などはどのように学ばれていたのですか?
それは独学で学んでいました。論文などは大学の図書館で読んでいましたし、化学のゼミなのにも関わらず情報系の論文を紹介していたりしました。笑
延々とプログラムを書き続ける生活をしていたのですが、だんだんとゲームを作るだけではなくいかに高速に動くプログラムを書くのか、いかにバグを取り除くのかなど、よりテクニカルなプログラミングへと興味が移っていきました。
わからないことや詰まった部分は雑誌や論文を読んで解決していました。
何せ田舎で、インターネットも使い放題ではなかったですし、周りにもプログラミングに詳しい人はいなかったので、本が主な情報源でした。
授業ではどのようなことをしていたのですか?
化学なので、基本的には実験です、それも繰り返し繰り返し行われるようなもので、人がやることじゃないなと思っていました。
そこで得意だったプログラミングを用いて実験工程の自動化ツールを開発しました。作業を簡略化して、自分がやることを減らす仕組みを作りました。
ただ安定して動かないことがあって実験のログが取れないなどのバグもあって、実験そっちのけでどうトラブルシュートするかに心血を注いでいました。実験自体はツールに任せっきりでしたね。
それはすごいですね。結局、就職は公務員の道へ進むことを選ばれたのでしょうか?
それが公務員試験に落ちてしまって、結局院進しました。
院へ行ってからも、ずっとプログラミングの毎日でした。高速化のテクニックを知ればそれを実験的なプログラムを書いて確かめたり、あとは雑誌とかではいろんなテーマを扱っているので、例えばモーフィングプログラムのアルゴリズムを変えてみたりとか。
モーフィングのプログラムがどういう理屈でやれば作れるのか、作ったはいいが全然早く動かないとか。そういう風に雑誌を読んで、開発して、動いたけどめっちゃ遅い!みたいなことをやって一人で楽しんでいました。
朝の3 - 4時までプログラミングしてちょっと寝て、起きたら研究室に行ってプログラミングをする、そんな毎日を送っていました。
院進されてから就職されたんですね。再度、公務員試験に挑戦したということですか?
それが結局のところ公務員試験は受けませんでした。
その時はさらにプログラミング熱が上がっていて、日中に自分の興味がないことをやるよりも、日中でも自分が好きなことをやった方がいいと思って、プログラマになる選択をしました。
当時はリクナビができたばかりの頃で、それを使って IT 企業を探していました。高知には IT 企業が少ないので、必然的に都心の企業を中心に回ることになりました。
自分が働きたいと思う会社は多くはなく、説明会に足を運んだ企業は5 - 6社程度でした。実際に行ってみて、社員の方と話をしてみても興味がわかない企業もありましたね。
そんな山崎さんはどんな会社に就職を決めたのでしょうか。
就職した会社の面接では、プログラミングの話で大いに盛り上がったんですよね。
今まで周りにそういう話題で盛り上がれることがなかったので、人生で初めて同世代でプログラミングについて楽しく話せる人に出会えました。
公共系の監視システムを作っている会社で、社員の方と話して技術力も高い印象を持てたこともあってそこに入社を決めました。
実際に業務でプログラムを書くというのはどうでしたか。
失敗はたくさんあって悔しかったですね。これまで昼夜問わずプログラムを書き続けてきたこともあって、自分には結構自信があったんですよ。
プロ仕様のコードをすぐには書けず、作ればバグが発生してシステムが止まって、先輩には怒られるし。悔しいことだらけでした。
入社直前の3月ごろから内定者アルバイトという形で仕事を始めたのですが、最初から炎上案件にアサインされたんですよね。笑
帰る時間は毎日夜の12時とかだったんですけど、予習せずに次の日行くと業務が前に進まないので、必死こいて勉強してました。朝の4時くらいまでテストを書いて動くのを確かめてから少し寝て、次の日出社する。そんな生活を最初の 1 - 2ヶ月くらいやっていましたね。
徹夜でもいいからプログラムが書きたい、と思っていたので、それ自体は苦痛ではありませんでしたね。これこそ IT 系企業だ!と胸踊っていたんですけど、自分の作ったプログラムはバグだらけでヒーヒー言ってました。笑
仕事のペースが掴めてきたのは、1年目の冬くらいです。リリースしたプログラムにバグがなかったんですよね。
その時やったことは仕様書をしっかり書いて、書いたとおりに実装して、仕様書とコードを突き合わせててチェックしながら進めていくと、結果バグがないものができた。これが仕事のやり方か、と自信を持つことができました。
それからは忙しいとか大変なことはいろいろありましたが、自分が作ったものはダメダメで、というような感覚にはなりませんでした。
基本的に一人で開発を進めることが多かったのでしょうか。
そうですね。
アサインされていたプロジェクトは数十名規模のチームではあったんですが、自分が担当しているのは閉じた一機能を仕上げるといったことが担当でした。
設計からテスト、実装までを全部一人で行っていました。
技術的につまづいた部分などは先輩に教わったりしていました。技術力が高い先輩や同期がたくさんいたので、楽しくやれていましたね。
何年ほど勤められたんですか?
17年ほどです。その中でも役割はどんどんと変化していきました。
最初はプログラマ、SE をやっていました。その中で、常駐先のお客さんからトラブルシュートを頼まれるようになったんです。
次第にお客さんから「困ったら山崎」と重宝されるようになり、相談件数も増えていったことで、入社して4年ほど経った2004年にトラブルシュートサービスを事業化しました。
私がリーダーだったこともあり、部下に30名ほど、パートナーを含めると60名くらいのチームを率いる立場になりました。否応なしにプロジェクトマネジメントの手法を学びながら、プロジェクトの推進やメンバーマネジメントなどをこなしていました。
その他、新しく事業をやりたいなと思っていたので、いろいろチャレンジさせてもらいました。合計で3つほど、新規事業を立ち上げました。もちろん裏ではいくつも失敗したものがありますけどね。
新卒で入社された会社で、新規事業やチームマネジメントを任され、大いに活躍されていたと思うのですが、どんなきっかけがあって起業に至ったのですか?
起業の経緯は、めちゃめちゃスピード感があるんですけど、2017年4月17日に会社を辞めて、半月後の5月1日に起業しました。
よくあるようなアントレプレナーシップがあったわけではないのですが、人を大切にする会社を作りたいと思って起業しました。
退職者をゼロにすることは難しいと思いますが、入社してくれる人や関わってくれる人を大切にしたい。人が定着したくなるような会社にしたいと思っています。今が70名くらいで、今後200名くらいを目指しています。
ミッションやビジョンについても、人が増えてきたこともあってそろそろしっかり設けようかなとは思っています。
すごいスピード感ですね。今後、どういう会社にしていきたいと思っていますか?
Airitech はミャンマー人の社員も多いんです。彼らは母国語はもちろんのこと、英語も喋ることができる。中には日本語を話せるトリリンガルもいます。賢く、優秀な方ばかりです。
だからこそ彼らの力を最大限に活かすために世界に出てくことも考えたいと思っていて、ミャンマーの支社を作りたい。この先5年くらいでやれたらいいなと思っています。
優れた技術をたくさん取り入れ、優れたエジニアを生み出していく、そんなプロセスを作りたいと思っています。
また日本では大企業との取引を増やしていきたいですね。それも下請けの下請け、とかではなく、直接話せる関係での取引です。そういう大きなところの IT 投資に影響を及ぼせるようにしていきたいですね。