一宵の舞
俺が雅楽舞踏を始めたきっかけは、こんな些細なことからだった。
「なぁ、お前ん家金持ちなんだろ?」
今思えば失礼な言い方だったと思う。小学生男子が言うことなんてこんなレベルだったかもしれないが、当時の俺は友達の家に遊びに行きたいがために振った突拍子もない質問だった。
「そうだけど、オレん家には来ない方がいい」
この頃から仲良かった友達のマコトが、俺の言わんとしていたことが分かったのかそう返されてしまった。だが俺は、そんなことでは引き下がる子どもではなかったのだ。
「そんなにお前んとこのとーちゃん怖いのか?」
てっきり、家に人を入れたくない厳しい家なのかと思っていたんだが。
「違う。なんならむしろ友達連れてこいって言われる」
マコトが苦々しそうに言っていたのに、俺はこの時それには気付かなかったのだ。
「じゃあ行こうぜ! お菓子持ってくからよ!」
俺は軽い気持ちでマコトの家に遊びに行ったのである。
マコトの家は、今と変わらず大きな和風の門で、横の扉から中に入って行ったから、あ、漫画でよく見るやつだと呑気に騒いでいたのを俺はよく覚えている。
玄関までの飛び石をわざと大きくジャンプして乗り越えたことも、ガラガラと玄関開けてすぐに出迎えてくれた和服の師匠のことも、今でもはっきりと思い出せる。
「よく来たな、マコトの友達よ」
和服の師匠……マコトの父は、両腕を組みながらそう言った。子ども心ながら一目見ただけで分かった。怖そうなお父さんだ、と。
「あ、あの、これ、お菓子です……!」
友達の家に遊びに行く時は必ず菓子を持って行きなさいと言われていた俺は、よく買っているクッキーが沢山入った菓子折りを両手で差し出した。すると、マコトの父親はその固く閉ざした口をすぐに緩めてこう言った。
「いい子だな。して、雅楽舞踏は好きかな」
「ガガ……?」
「ガガクブトウだ。ま、ここで説明するより見てもらった方がいいだろう。さ、中に入りなさい」
これが、俺が雅楽舞踏役者になったきっかけ。
けど俺はこの時はよく知らなかった。雅楽舞踏のことも、マコトのことも。玄関の隅で縮こまったように突っ立っているマコトの顔を見やっても、これから何をされるのか教えてくれなかったのだから。
何がなんだか分からないままマコトの父に連れて来られたのは、舞台のある広い和室だった。
そこには何人か和服の格好をした男女がいて、時には扇子を持ったりしてぐるぐる回ったり跳ねたりしていた。
「やめっ!」
これがなんなのかと俺が聞くより早く、マコトの父がよく通る声で皆に言った。そこにいた全員が、ぴたりと時間が止まったみたいに動きを止めた。
「紹介しよう。マコトの友達だ」
とマコトの父に紹介され、俺は緊張しながら小さくお辞儀をした。そこにいた人たちが一斉にその場で正座をしてお辞儀を返してくれた。この時俺は単純だったから、自分が王様にでもなった気持ちになっていたのだ。
「名前は? なんだったかな」
まだ名乗ってもいなかったのだが、俺のことはマコトから聞いていたのだろう。俺は自己紹介をした。
「七崎トオル」
「トオルくんか。いい名前だ」マコトの父はそう言った。「ヤマト、トオルくんに一の芸を見せなさい」
「はっ」
そうして出てきたのは、マコトの父の一番弟子、ヤマトさんだった。
ヤマトさんは当時十七歳だったが、その時の俺からしたら背が高くて目鼻整っていてかっこいい大人、といったイメージだった。
ヤマトさんはいそいそと舞台へ上がって行った。何が始まるんだろうとマコトの父を見上げても嬉しそうにニコニコするばかり。
その内に、ドンッと大きな音が鳴って俺が急いで舞台へ視線を戻すと、ヤマトさんが床を思い切り踏み込んで宙にくるりと回っている様子が視界に飛び込んで来た。
ヤマトさんの後ろで同時に舞い上がった着物の裾がまるで羽根みたいに見えて、俺は一瞬で目が奪われた。
飛び上がった時とは真逆にあまりにも静かに着地すると、ヤマトさんは舞台の前へ半歩出た。
その時、さっきまではどこにもなかったはずのお面をヤマトさんが顔に付けていて俺は更に驚いた。細目をした狐のお面が、真っ直ぐ見ているような、全体を見回しているかのようにそこに佇んでいたのだ。
「すっげぇ……」
俺が漏らした第一声はそれだった。
それからマコトの父を見上げた。
「なぁなぁ、さっきのなんだ?! すっげぇかっこいい!」
そう言うとマコトの父は嬉しそうに笑って何度も頷いた。
「教えてやろう」
それが、俺が雅楽舞踏役者となった始まりだった──。
マコトの家は、代々雅楽舞踏役者一家であった。
ただ、マコトは雅楽舞踏役者になることを嫌っていて、マコトの父……俺の師匠となるこの人は、跡継ぎがいなくなるだろうと開いていたのが雅楽舞踏役者育成教室だったのだそうだ。
そこでは何人もの人が厳しい練習で途中挫折する人が多く、なかなか弟子が出来ず、師匠はマコトが友達を連れてくる度に雅楽舞踏教室に誘っていたらしい。
それをきっかけに友達が減るからとマコトは俺を家に招待することを嫌がっていたのだが、俺が思ったより雅楽舞踏の練習に来るので、周りはかなり驚いていた。
「なぁ、無理して父さんの練習に来なくていいんだぜ?」
とマコトに言われたこともあったが、それより何より俺が雅楽舞踏にハマっていたのだ。
「まぁ、確かに練習はきついけどさ、一の芸だけはやりたいじゃん!」
俺は運動もそこそこ出来るタイプだったが、とりあえず足が早ければいい訳ではないので雅楽舞踏はすごく大変だった。
「違うぞ!」
師匠には何度もそう言われ、この人なんて声がデカいんだろうと思ったりもしたが、俺には憧れの人がいたから諦め切れなかったのだ。
ヤマトさんだ。
ヤマトさんがここに勧誘されたのは、マコトの兄の友達だったからということらしいが、一度やってみたら思いの外一発で一の芸が出来たから師匠に相当気に入られているらしい。
聞くと元々剣道をやっていて、着物や立ち回りに通じるものがあったのかもなんてヤマトさんが話してくれた。俺も剣道をやってみようかななんて言うと、ヤマトさんが優しく笑ってくれたのをよく覚えている。
俺はますますヤマトさんみたいになりたくて何度も稽古に励んだ。とはいえ、俺は単純だったから、一の芸……あの初めてヤマトさんが見せてくれた雅楽舞踏さえ出来ればなんでも出来ると思い込んでいたのだ。だから何度ダメだと言われても、一の芸さえ出来ればと挑戦し続けることが出来たのだ。
しかし、俺は師匠の芸を見て、雅楽舞踏にすっかり魅了されることとなる。
師匠は、人前で舞をすることはなかった。なので弟子たちからは、怪我で引退したんだと噂が流れていた。
あんなに厳しく指導する人が本当に一つも芸が出来ないのかと子どもながら疑い心を抱いていた俺は、二人きりになったタイミングでヤマトさんにこう聞いてみたことがあった。
「師匠はなんで芸をやらないんでしょうか」
するとヤマトさんは、くすりと笑って手にしていたミネラルウォーターを口にしてからこう言った。
「みんなの噂を聞いたんだね」とこちらの考えを読んだかのようにヤマトさんは言った。「師匠の芸見たら絶対惚れるよ。間違いなく」
「ふぅん……」
ヤマトさん、あんな歳上が好きなんだ、なんて的外れなことを考えながら俺もミネラルウォーターを飲んだ。けど、ヤマトさんがそこまで惚れ込んでいるなら、俺も師匠の芸を見てみたいと思った。
そんな会話をした後だったから、余計師匠の芸が見てみたいと思っていたのだが、やってくれと言ってみても見せてくれることもなく。そんなに見たいなら一の芸をやりこなしてからにしろと師匠に言われ、俺は俄然やる気を出して必死に練習を続けた。
俺は一の芸を完璧にこなし、師匠の芸を見てからこの教室を辞めるつもりだった。俺は師匠の芸が見たいがために練習をしていた。
「もっと腰を使え!」
師匠にそう言われたある日、俺は頭を使うのが苦手だから、正直何言ってるんだと思っていた。ジャンプをするだけなのに、なんで腰を使うんだ、と。
ならば極端に腰を使ってやり過ぎだと言われてやろうと妙な負けず嫌いを発揮して、俺は腰を低く落とした。
それから勢いよく跳ねた時、思った以上に高く飛び、俺は初めて宙で一回転したのだ。
俺は素早く懐にあるお面を取り出した。あとは流れるように半回転して前に出た。
出来た、と思った。
それでも最後までやり抜かなくてはと息を止めてポーズを取ると、個々で練習している弟子たちは全く俺なんかに目もくれていなかったが、ただ一人、師匠だけが拍手をくれた。
「よくやったな」
「師匠……!」俺はすぐに師匠の元へ駆けつけた。「これで師匠の芸を見せてくれるんですよね!」
「そうだな」
師匠はそう言って目を細めた。それから俺の肩に手を添えて、こっちに来なさいと別室に連れて行かれた。
その部屋もまた和室だったが、そこはいつも練習している教室とは半分くらいの広さしかないところだった。他には高級そうな掛け軸とツボが置いてあって、こんなところで芸をやるのか? と思っていた。
すると師匠が一人奥に行き、くるりとこちらに向き直った時には、見たこともない表情をしていて俺は目を見開いた。
それからふわっと音もなく跳ねたかと思えば、今度は右に行って跳ね、着物の裾を振るって後ろを向き、両腕を広げてひらひらさせる。
俺はその様を見て頭に浮かんだ言葉を自然と口にしていた。
「……蝶?」
すると、師匠はこちらを振り向いて頷いた。
「そうだ」
そこにいたのは役者の顔をした師匠ではなく、厳しい目付きで指導していたよく見慣れた顔に戻っていた。
「俺も、出来る?」
俺の質問に、師匠はもう一度深く頷いた。
「練習を怠らないならな」
こうして、俺は本気で、雅楽舞踏役者を目指すことになったのである。
雅楽舞踏とは、あの時師匠に見せてもらった蝶の舞のように、生き物を表現するのが多かった。
一の芸と呼ばれる、雅楽舞踏役者になるなら必ずやらなくてはいけないこの舞は、人間が化け狐に変身する様を表現しているらしく、これさえ出来れば他の芸も出来るようになると言われていた。
師匠が見せてくれた蝶の舞は二の芸であり、一の芸を完全に習得した者が練習することを許されるものであった。しかし、二の芸も師匠が楽々とやってのけたようにそう上手くいくものでもなく、また意味不明な指示を受けていた。
「裾が垂れ下がっているぞ」
そりゃあ着物は自分の体の一部じゃないんだからと文句を言いたくなることもあったが、その度に俺は師匠のあの舞を思い出し、そして遥か上にあるヤマトさんの技術に惚れ込み、自分もいつか……と闘争心を抱いていたのだ。
そう。俺は、師匠と同じようにヤマトさんのことは尊敬の意を持っていたのである。そのはずなのである。
あの日が来るまでは。
俺は、周りの弟子たちと比べたら出来が悪かった。なんなら後から来た弟子の方が俺より早く芸を習得し、どんどんと上に行っては様々な理由で役者になるのを辞めて行った。
正直、雅楽舞踏役者の練習はキツかったのだ。
それは芸を習得すればする程難易度が増していき、今まで気にしていなかった部分が筋肉痛になることもあった。けど俺は、健康だけが取り柄だったから、特別な用事がない限り毎日毎日教室に通った。
だから前に、親戚の集まりがあった時に思わず雅楽舞踏の動きをしちゃった時は、上品な息子さんですねって褒められたこともあったっけ。
褒められるならまだいい方なんだけど、親戚のよく知らない子どもが俺の動きを見て変な踊りと言われた時には追いかけ回したこともあった。結局俺が歳上なんだからと怒られたけど、雅楽舞踏は変な踊りなんかじゃない。あれは大昔から受け継がれてきた由緒ある伝統舞踊なんだ。変じゃないんだ、変な訳じゃ……。
「最近、一生懸命だね」
「えっ」
馬鹿にされたことを悶々と考えながら必死に芸の練習をしていた時、ヤマトさんが唐突に声を掛けてくれたのだ。
見ると他の弟子たちは休憩時間に入っていて、いつまでも芸の練習をしている俺が気になったらしい。
「だって、腹立つんですよ。変な踊りだって」
すると、ヤマトさんははははって笑って。
「君のやる気は怒りから来ているんだね、羨ましいよ」
何が羨ましいのか俺には分からなかった。だって腹立つから練習してるやつなんて、きっと俺くらいだ。
「ヤマトさんは、どうして雅楽舞踏役者を目指してるんですか?」
何気ない雑談のつもりで訊ねたことだった。だが、これはマズイ質問だったらしい。
「うん、そうだね……」
ヤマトさんの目に影が差し込んだ。俺は子どもながら慌てて言葉を繕った。
「あ、いいですよ、別に答えなくても!」
俺は無理に笑って手を前に振った。ヤマトさんも笑いはしたが、そこに明るさはなかった。
「ありがとう、トオル君。けど、いいんだ」ヤマトさんは言葉を続けた。「僕には目的も夢もないんだ。やりたいことが見つからないから、こうして出来そうなことをやっているだけ」
「え、それだけであんなに上手くなれるんすか?」
「ははっ、僕はまだまだだよ」
困ったように笑うヤマトさんは、どこか儚げに見えた。
「じゃあ俺が夢になるっすよ!」子どもだった癖に、俺は言葉だけは偉そうだった。「俺がヤマトさんを越えないように、ずっと上の役者でいてくださいね!」
そんな子どもだった俺の適当な言葉。けどこの時の俺は本気だったんだ。憧れの人は、ずっと憧れであって欲しいと。
するとヤマトさんが大口開けてハハハッと笑った。俺はその笑った横顔を見て、心がざわめくのを感じた。
「そうだね。トオル君のために、高みにいないとね」
そう言って優しく笑ったヤマトさんにドキリとした。俺がヤマトさんに恋心を抱いた瞬間だった。
とはいえ、小学五年生だった俺が見向きされる訳もなく。
俺はいつの間にか、師匠のようにかっこよくなりたいではなく、ヤマトさんに近付きたいと思うようになった。
すると不思議なことに俺はみるみる内に上達していき、どんどんと雅楽舞踏の芸を習得していった。
その度ヤマトさんは俺との約束通りどんどん上の人になっていった。俺はますますやる気を出し、途中で辞めるんだと思ったけどよく頑張ってるな、なんて色んな人に言われた。
俺はもう何言われても追いかけ回したり言い返したりしなかった。なぜなら俺の中にはヤマトさんがいたから。
ヤマトさんと、いつか並ぶために。
そうして月日が経って、俺が十七歳になった時には、ヤマトさんはとっくに成人していて、各地で芸を披露する一流の雅楽舞踏役者になっていた。
ヤマトさんとはほとんど会わなくなった。それは寂しくもあったが、それに浸っている余裕もないくらい俺は毎日練習に励んでいた。
俺が小さかった頃にたくさんいたはずの弟子たちも今では数えられるくらいになり、よくあちこちで継承者がいなくなって伝統的なものが消えていくように、雅楽舞踏も廃れつつあった。
雅楽舞踏は名前の通り雅楽師たちと舞う芸の一種であった。しかし、若手の雅楽師はぐんっと減っていて、俺もよく会う雅楽師たちが顔見知りしかいないということになっていた。
そういうこともあって知り合いの雅楽師からヤマトさんの話を聞くことがよくあった。俺はそんな話を聞くのが楽しみだったのだが、ある日衝撃的なことを聞かされることになった。
「ヤマトのやつ、この前大怪我したんだよな」
「……え?」
俺はあんなに憧れだった人に連絡先も交換していなくて、なぜ怪我をしたのか、今は大丈夫かなんて直接聞くことは出来なかった。だが後から聞いた話だと、ヤマトさんが出演すると言われていた公演が次々と中止になったとのことだった。そんな大怪我だったのか、詳細を更に知ることも出来ないまま、俺が稽古をしている師匠の家に、ヤマトさんが帰ってきた。
ヤマトさんは松葉杖をついていた。
ヤマトさんに実際多く会ったことがない人が多かったこの教室の弟子たちは、ここで育ったすごいプロだとみんながサインや握手や撮影を求めた。
俺は行かなかった。ただ、初めて見る私服のヤマトさんに、見取れているばかりだった。
「怪我人に無理はさせるな」
そこに師匠が割り込んできて弟子たちは散り散りになった。俺はここでようやくヤマトさんに近付くことが出来た。
あれ、こんなに身長近かったんだ。
いつも見上げるばかりだった憧れの人。
……俺の、片想いの人。
「久しぶりだね、トオル君」
ヤマトさんからの声をこんな間近で聞いて、込み上げてくる何かを感じた。俺は出来るだけ冷静でいようとした。
「お久しぶりです、ヤマトさん」
それからにこりと笑ったヤマトさんは、やっぱり俺の好きなヤマトさんで。話したいことがたくさん溢れて、けど矢継ぎ早に喋ってはいけないと俺は唇をきつく絞めた。
「あの部屋が開いてるぞ」
気を利かせた師匠が、そう言ってここから立ち去った。周りはあちこちで芸の練習をしている弟子たちだらけだった。俺はヤマトさんを振り向いた。
「行きましょう」
「あの部屋」というのは、俺に初めて師匠が芸を見せてくれたこじんまりとした和室のことを指していた。
相変わらずこの部屋は時が戻ったみたいで、俺は自然と自分の話をすることが出来た。その間ヤマトさんは黙ってうんうんと話を聞いてくれて、こんな穏やかな時間を独占していることに、どこか優越感があった。
そうして俺が、雅楽舞踏の全種類の芸を習得出来ましたと報告を終えると、一呼吸置いてヤマトさんがゆっくりと話し出した。
「そっか。もうここまで成長したんだね……」
「はい、おかげさまで」
そう言うと、ヤマトさんは僕は何もしてないよと微笑んだ。俺はそんな優しい表情に思わずまた見取れてしまって、なんとか目を逸らした。
「それで、ヤマトさんは……」
俺はヤマトさんが床に下ろした松葉杖を見やった。この家には椅子なんてものがなかったから、ヤマトさんは座布団に座って足を伸ばした状態だった。聞くのはマズイかもしれないと、俺ははっきりと訊ねることを躊躇った。
「舞台から、落ちたんだ」
「え……」
俺はヤマトさんを見つめた。ヤマトさんの表情から途端に色が消えていて、俺の心臓は不穏さを察した。
舞台から落ちた? ヤマトさんが?
俺が子どもだった時からなんでも出来た憧れの人が、今更舞台から落ちるなんて下手をする訳がない。なぜ落ちたのか。俺は聞いてみたかったが、ヤマトさんの顔を見れば見る程、聞いてはならないと言われている気がした。
「それで、骨折していて」
なんとでもないというふうにヤマトさんはそう言った。俺は次の言葉を待った。役者が怪我をするということがどういうことなのか、分かっていながら。
「……雅楽舞踏役者は、もう出来ないかも」
ドキリとした。それは嬉しいとか驚いたとかではなくて、恐怖だった。
「それ、は……」
俺はなんとか言葉を絞った。情けないくらい声が震えて俺は膝の上で拳を握った。泣きそうになる気持ちをグッと堪える。泣きたいのは俺だけじゃないはずだ。俺はヤマトさんの顔をちゃんと見ることが出来ているのか自信はなかった。
「約束、破っちゃったね」
「そんなことは……!」
俺はヤマトさんの目を見つめた。ヤマトさんの目がずっと悲しくて、俺は言葉の続きが言えなかった。
俺は座り直して自分の膝へ視線を落とした。
「その、俺の約束……覚えてくれてて、嬉しいです」
これが慰めの言葉ではないと分かってはいるけれど。
他に掛ける言葉も思いつかなくて。
見るとヤマトさんは、俯きながら力なく笑った。そんな顔を見ると心がますます苦しくなった。俺の言葉が、こんなにもヤマトさんを縛っていたのだと思うと、尚更。
「嬉しかったんだ。あの時、トオル君がそう言ってくれたこと」ヤマトさんは話続ける。「いつもなんとなくやっていた雅楽舞踏に本気になれたのも、トオル君のおかげだった。……ははっ、先輩なのに、元気付けてもらって情けないよね」
「そんなことないです!」俺は声を張った。「俺は、今でも……今でも俺にとっては憧れの先輩で……」
あ。これ以上言ったらマズイな。俺は勢いで前のめりになっていた上体を引っ込めて明後日の方向へ目を向けた。俺はこんな状況で告白するつもりか? そんなの格好悪いだろ、弱ってるヤマトさんに付け込んでいるみたいで。
「トオル君」
「は、はい」
ヤマトさんの言葉に俺は反射的に返事をしながらも、その目を見ることはもう出来なかった。ヤマトさんは俺の心の中を見透かしたんだろうか。それとも、これから見透かされてしまうんだろうか。頭の中は整理がつかなかった。
「トオル君、もう十の芸は全て習得したんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、トオル君の芸は?」
雅楽舞踏にある芸は基礎だけだと十種類しかなかった。それは十七歳くらいには習得しているものとされていて、それ以降は自分オリジナルの芸を開発、習得することを許されていたのである。個人差はあるが、俺が雅楽舞踏を始めたのが十歳の頃だから、七年間の修行を経ている俺には、充分にその資格が与えられていた。
「俺のは……」
俺は言葉を詰まらせた。オリジナルの芸を許可されていることも知ってはいたし、開発して練習していたこともあったが、どれもしっくり来なくて習得までには至っていなかった。
ただ一つを除いて。
「あ、ごめん、無理にとは言わないんだ。ただ、トオル君の芸を見てみたかっただけだから」
ヤマトさんに気を遣わせてしまった。俺は早く言わなくてはと気持ちが焦った。
「俺の芸は、ないです」
俺ははっきりと言い切った。視界には困惑するヤマトさんが映って、またごめんと言われる気がした。俺は言わせまいと大きく息を吸ってすぐに答えた。
「ヤマトさんの芸なら、習得しました」
「え……」
息を飲む、とはこういうことなんだろうと思う。ヤマトさんの表情はまさしくそれだった。
雅楽舞踏はその長い年月も受け継がれている間に、様々な意味合いが紐付けられていた。一つは、師匠からオリジナルの芸を教わった時に初めて一番弟子と認められたことを指していたり、最愛の人に捧げる特別な芸があったり。
そして、師弟関係以外がその人の芸を習得することを、求愛行動と呼ばれていて、それはつまり、プロポーズと同等であることを示していた。
「それは……」
「見てくれますか」
俺はヤマトさんの言葉を遮ってそう言った。ヤマトさんの眼差しが動揺で溢れているのが見て取れた。けど、もう俺は目を逸らさないと決めていたから、見つめ続けていた。
「……うん」
ヤマトさんは何も聞かずに頷いた。俺は芸をするために立ち上がった。
ヤマトさんの芸は直接見ることは出来なかったが、画面越しで何度見て何度も練習して習得してきた。不安はあるけれど、きっと大丈夫。俺はヤマトさんを振り返ってそう思った。
俺は練習してきた通りにまずは正座して頭を下げた。芸を始める前の自己紹介と文句を読み上げるように言葉を放ち、ゆっくりと、動作を開始した。
ヤマトさんは俺の芸が終わるまでじっと見守っていてくれた。どこかミスがあるだろうかと不安と緊張の中、ヤマトさんの拍手だけが何よりもの救いだった。俺が初めて師匠の芸を見た部屋で、ヤマトさんの返事を、聞くことになった。
おしまい
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