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撮ったものと、撮れちゃったもの。

月の撮影についていろいろ調べてたついでに、
古いデータを見ていたら、2013年のものがでてきました。
データってすごいね。フィルムだと無理だったわ。

NIKON D800 + AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8 G ED

大阪城の堀と、月。

(深く考えずにトーンだけ触ったら、やっぱりトーンジャンプしてますなー)

これ、三脚背負って、リュックにカメラ詰めて、てくてく歩いて、撮りに行ったんですよね。
いい写真だとはまったく思わないんですけれども、ひどくもないなということで、アップしてみるわけですが。

最近、わざわざ撮影のために出かけることがなくなってまして。
主に時間的問題が大きいんですけれども。
なんでこんなに余裕なくなってるんだろう? って思います、ええ。

撮影のために出かけるのか?
出かけたついでに撮影するのか?

同じように見えて、内容は全然違います。

だけど写真では、どっちの意図で撮影したものか、さっぱりわかんない。
同じように見えちゃう。

だから結果だけがすべて、ってことになってしまいます。
見た人の感覚がすべて。

だから余計に「どう取り組むか」側への意識が重要に……なるかもしれないし、気にしない方がいいのかもしれない。

袋小路。

みたいな感じになりがちですね。

先日出かけた恩師の個展で、
「会話を介しない、ディスコミュニケーション上のコミュニケーション」
というワードが出てきたんですよ。

アートに限らず、ビジュアルなり言葉なりを介したコミュニケーションの中で、
どう伝わるのか?
どう伝えるのか?
というのは、いつも考えていかなくちゃね、みたいなことを思ったのです。

その周辺には、

わざわざ説明するのか、
説明せずに投げっぱなしにするのか、
意図だけは伝えるのか、

というような付帯項目がふわふわ飛んでたりしますね。

おそらく何十年も前からずっと議論されてきたであろうお話です。
自分になにか言えるようなことはないんですけれども、答えが出るはずもない中で「どうするか?」は常に考えたいなと思うのでした。

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