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【小説】未来への分かれ道(前編)

手短に朝食を終えて新聞に目を通す。普段は気にも留めないはずの紙面広告がふと視線に止まる。その瞬間、身体は硬直し、やがて静かに全身の力が抜けてゆく。

『風船作家・天野まどかの世界』展

新聞の片隅にその文字を見つけた雅宏まさひろは、心を打ちのめされるほどの衝撃を受けた。かつての同級生が輝かしい未来へと歩んでいる現実と、まだ何者でもない今の自分の現在地。それは雅宏が30歳の誕生日を迎えた朝の、あまりにも運命的な出来事だった。


由緒ある人形職人の一家に生まれた雅宏にとって、父・諏訪すわ嘉宏よしひろの人形工房は幼い頃からの遊び場だった。工房の横のアトリエには母・祥子しょうこが講師を勤めるバルーンアート教室があり、雅宏も傍らで覚えるうちに、小学校を卒業する頃には祥子が依頼されるイベント用のバルーン製作などの手伝いもするようになった。

天野円香あまのまどかは高校の同級生で、高3の文化祭の実行委員で一緒になったことをきっかけに話すようになった。雅宏が自ら委員に立候補したのは、この機会にバルーンアートを一人でも多くの人に知ってもらいたいと思ったからだ。正門と生徒玄関と体育館それぞれの入口に飾られるカラフルで大きなアーチ。すでに頭の中にそのイメージは出来上がっていた。

家から持ってきた大量の風船を教室の机の上に広げては、放課後になると手動のポンプでひたすら風船を膨らます作業を円香にも手伝ってもらった。


「諏訪くん、くまさん作ってよ。縁日の屋台とかで売ってる風船のお人形さんみたいなの」
そう言って、空気を思い切り膨らませた長い緑の風船を円香が持ってきた。
「んー、これだと無理かな。まだ膨らませてない風船をひとつ持って来て」
「なんで?」
「作りながら説明するよ」

「まず風船を膨らませて…あっ、まだ口は結ばないで」
「えっ?」
「少しだけ空気を抜いてあげて、10センチ分くらい」
「なんで?」
「風船をひねる時に割れないように、あらかじめ中の空気の逃げ道を作っておかないとね」
「へー。諏訪くん、先生みたいじゃん」

「全体的にほぐして、ここを持ってこうひねる」ギュッ
「うわぁ!割れる!」
「大丈夫。最終的にちょうどいい圧力で空気が張るように調節してるから」

「ここを押さえたまま、2番目と7番目の結び目をまとめてひねる」ギュギュッ
「ぎゃああ!」
「割れないから、大丈夫だって」

…高校生だった当時のやり取りが、まるで昨日のことのように脳裏に甦ってくる。
雅宏の夢は人形劇の脚本作家だった。自分が描く物語の中で、父が作った数多の人形達が舞台の上で脚光を浴びる、そんな日が来ることを夢見て、時間があれば工房に篭り、ノートに幾つものプロットを書き留めていたが、いざ進路相談の場に直面すると、空想のような願望を語ることに尻込みし、結局は周りに歩調を合わせるように進学先を決めた。その葛藤は、不思議と心を許せた円香にだけは打ち明けていた。

「諏訪くん、進路どうするの?」
「大学に行って、普通に就職かな」
「うーん、勿体ないね。すごく才能あるのに」
「厳しいでしょ、現実的には」
「…」

「天野は短大志望だっけ」
「でも最近また迷ってて…でも決めた。アートの勉強がしたいから専門に行こうと思う」
「今からの進路変更は流石にきつくない?」
「だよね。でもちょっと止められそうにないかな、この気持ちは」
「そっか、まぁそれも天野らしいというか」
「…」
「…」


…気付けば午前7時25分、もう家を出ないと間に合わない時間になっている。雅宏は現実に意識を戻し、身支度を済ませて急ぎ足で駅へと向かった。あの頃からずっと感じていた、煮え切らない感情の正体を探しながら。


後編はこちら↓↓↓






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