【ピリカ文庫】スケッチブック
ここ数年、人生の目標を見失ってからの自分は、無機質なアンドロイドのようだ。いや、人工知能が感情を持ち始めた時代に、この例えはもう古いのかも知れない。
名ばかりの休日、増え続ける業務。時間と体力を仕事に全振りして、生活ギリギリの給料で日々を凌ぐ。今日も仕事で残った資料を家に持ち帰ろうとしたその時、2年後輩の丸山京香が首を傾けてこちらを覗きこんだ。
「あっ、スケッチブックじゃないですか!」
迂闊にもカバンを開けた際に見られてしまった。持ち帰る書類を大量に放り込むために買ったカバンは、B4サイズのスケッチブックが余裕で入るほどの大きさで、明らかに目立つ黄色と黒の表紙は、周りから見れば真っ先に目に止まってしまうのも無理はない。
「本田さん、そんな人間らしい一面もあったんですね。ずっと感情のないロボットみたいな人だと思っていたのに。でもたしか将来ロボットの賢さが人間を上回る時代が来るんでしたっけ。シンクロニシティ、じゃなくて、えーと」
「シンギュラリティ、かな」
「あっそれです!そういえば私、シンクロニシティっていう漫才コンビが好きで…あ、ごめんなさい余計な話で呼び止めちゃって。お疲れ様でした!」
多忙を理由に、絵を描かなくなって3年が経つ。時間に追われるうちに趣味の優先順位が下がってしまうのは、悲しいが仕方のない事だ。
しかし先月、仕事であまりに理不尽な出来事に遭い、相当に心が折れた自分を救ってくれたのが、家に眠っていた思い出のスケッチブックだった。いっそ全てを終わらせたいとも思ったあの夜、眩しかった遠い日々をふと思い出し、どうにか踏みとどまることが出来たのだ。それ以来、このB4サイズの大きな御守りを、常に持ち歩くようにしている。
「おはようございます。昨日はすみませんでした。本田さんのこと、感情のないロボットみたいな人って言っちゃって。ロボットにだってきっと感情はありますよね」
どちらにしても彼女の中で『ロボット』の印象だけは確定しているらしい。
「そういえばあのスケッチブック、いつも持ち歩いているんですか?」
「持ってるだけで、もう使ってはいないんだけどね」
今では名の知れた映画監督が、10年前に初めて撮った短編映像作品。物語の冒頭で主人公が描いているラフなスケッチ画は、実は自分が描いたものだ。
高校時代、映画のロケに我が校の美術部の部室が使われ、撮影シーンで使う風景画を探していた監督が、部室の棚に並んだスケッチブックから、ありがたいことに自分の絵を選んでくれた。エンドロールにも【本田彰仁】と名前が刻まれ、好きな絵を通して初めて社会と関わることが出来た喜びは、その後の人生の苦しい時間を何度も支えてくれた宝物だ。
「昨日あの後、同じスケッチブック買ったんです」
そう言って彼女は、背中に隠していた文具店の紙袋を開け、新品のスケッチブックを取り出した。
「私も、学生時代に一応サークルに入ってて。まあ全然パッとしなかったんですけどね」
「そうか、丸山さんも一緒だとは思わなかった。でも意外な一面…というか」
「本田さんのスケッチブックを見た瞬間に、急にあの頃を思い出しちゃって」
職場では頑なに自分の素性を出すまいと、今までは周りとの雑談もほぼ避けてきたが、どうにも慣れない親近感に身体がビクリとする。
「本田さん今度、お互いに見せ合いっこしませんか?」
「だめだめ、かなり腕も落ちてるし」
「じゃあ特別に、来週まで猶予をあげますね」
いつの間に彼女のペースに巻き込まれてはいるものの、何の楽しみもなかった日常に思いがけない刺激をもらえたことに、素直にありがたいと思った。
1週間後、終業の時刻はとうに過ぎていたが、互いに様子を伺いながら残った業務を片付け、フロア内に他の人の気配が消えるのを待った。
「さて本田さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
重大な何かが起こる予感に身震いがする。不敵な笑みを浮かべる彼女は、すでにスケッチブックを手に臨戦態勢だ。真剣な表情でこちらを見ながら表紙を裏返し、1枚目が捲られる。
「デデン!『ここ最近で職場の後輩から言われた、最も衝撃的だった一言とは!?』」
…B4サイズの白紙いっぱいに、極太の黒マジックで大喜利のお題が書いてある。
「本田さん、腕が落ちてるって言ってたので。まずはチャンス問題からです」
その瞬間、全身の力が抜けて、膝から床に崩れ落ちる。そしてもうどうにでもなれという気持ちで、自分のスケッチブックをそのまま彼女に差し出した。
「えええっ!うそっ?てっきり大喜利を書いたスケッチブックだと思ってたのに!」
ここ最近で職場の後輩から言われた、最も衝撃的な一言だった。聞くと彼女は学生時代に大学のお笑いサークルに所属していて、完全に『スケッチブック=大喜利』のイメージだったそうだ。今度は彼女の身体が、大きく膝から崩れ落ちて床にへたりこむ。
「本田さんの絵、めちゃくちゃ上手過ぎて最悪です。デデン!とか言ってた私がバカみたいじゃないですか!」
と涙目になりながら、急にスイッチが入ったように、新しいページに文字を書き走る。
「デデン!『こんなスケッチブックの使い方は嫌だ!どんな使い方!?』」
目を腫らしてこちらを睨み付ける眼差しには、もはや殺気が滲み出ている。しかし転んでもタダでは起きない彼女の根性と打たれ強さは、間違いなく今の自分に最も足りなかったものだ。
「本田さん、今夜は逃がしませんからね」
次は、こちらが覚悟を決める番だ。
「書きました」
「では参ります。『こんなスケッチブックの使い方は嫌だ!どんな使い方!?』」
「『落とし蓋』」
「くうっ…!一本!」
人が抱える悩みや憧れ、もちろんスケッチブックの使い方も、それぞれに正解も不正解もないのだと彼女から教えられた気がした。そして…この人生を諦めるには、きっとまだ早過ぎる。
今、胸の奥に灯り始めた確かな光が、この先いつまでも消えることがないようにと、強く願った。