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わたしは “わたし” を表現するために生まれてきた

「なんのために生まれてきたんだろう?」
「わたしは、なんのために生きてるの?」
「自分の人生って、なんなんだろう?」

過去に、何度も何度も考えてきたこと。
考えたところで答えは出なくて、だんだん病みモードに入ってしまうから、途中で放棄したりしながら。

ただ、最近はこの疑問に対して、“こういうことなんじゃないかなあ” と思うことがあるので、現時点でわたしが感じていることを、残しておこうと思います。

◆ “コレ”という明確なゴールはない

人生には、明確に“コレ”というような、「たどり着くべき正解」や「ゴール」があるわけではないと思ってる。

だけど「目的」はあって、それはただただ、“わたし” という世界を、人生(生きかた)を通して表現すること なんじゃないかな、と。

ちょうどわたしが、このnoteの文章やInstagramの画像なんかで、自分の「好き」や「感覚」、“わたし”というフィルターを通して見える世界を表現しようとしているように。

だから、そこに “間違い” なんていうものはなくて。逆を言うと、“正解” は自分の中にあるのですよね。

そして多分、たどり着くべき “明確なゴール” はないのだけど、“わたし” のまま、“わたし” をがっつり表現しながら生きていたら、自然と自分が望んでいるような人生が展開していくようになっているんだろうと思う。

わたしの人生のバイブル本のひとつである、アニータ・ムアジャーニ著『喜びから人生を生きる!』より、文章を一部引用させてもらいます。

自己のユニークな本質を表現することは、自分自身への、自分が出会ったあらゆる人への、そして人生そのものへの義務であると理解しました。

自分以外のものになろうとすれば、良い状況がもたらされるどころか、真の自己を否定することになるのです。
本当の自分にならないことは、私がここにやってきた目的を宇宙から奪い取ることなのです。
自分自身でいさえすれば、私のユニークなすばらしさが、自分や他人にとって一番良い方向へと導いてくれるのです。

私に必要なのは、このことだけなのです。
私たちは、愛や情熱など、あらゆる種類の感情を表現するために、身体を持つ選択をしたのだと思います。

それらは、純粋な意識やワンネスの状態では、個別に表現できないものです。
この現実世界は、表現するための遊び場です。

私たちは来世のために学んだり経験を積むためにここにいるのではなく、目的を持つ必要性もないようです。


これを読んだとき、感覚的に「あー、そうなんだろうなあ」と腑に落ちたんですよねぇ。


◆ “自分を表現すること”が目的なのに・・・

だけど、この世界を生きていると、“自分ではない誰か”の正解に沿おうとしたり、それをなぞったりするような方向に進んでいってしまうことが往々にしてある。

そうすると、“わたし” という世界の表現からは、かけ離れていってしまう。これじゃ、人生の唯一の目的を達成できないのですよね。

だから、そうやって“わたしの表現”からずれてしまっているときに、「そっちじゃないよ」のサインとして、“不調”を通して心身に訴えかけてくるんじゃないかな。


◆ 表現に間違いなんてない

“誰かの正解”は、その“誰か”にとっての正解でしかない。だから、“自分の正解”にする必要はないのですよね。

誰に何を言われようと、 “なるほど、それがあなたの正解なんですね” でいいのよ。“わたしの正解は、これなので” ってスタンスで。

そこはちゃんと別物として捉えて、その上で[ 自分の世界に取り入れる or 取り入れない ]という決断すらも、自分自身でしていい。

決断の基準は、これもまた “自分の感覚” 。

抵抗があることや、嫌悪感を感じることは、取り入れなくていい。

逆に、抵抗がなく、これだ!って感じることは、取り入れればいい^^

誰かの正解を、自分の表現を止める理由にしなくていいんだ。たとえ “間違っている” とか “おかしい” と否定されたとしても。

あなたの世界はあなたにしか感じられない。あなたが感じていることは、あなたの世界の唯一の真実。

自分自身の経験や、日々の出来事、出会い、人との関係などから、“わたし”という唯一無二のフィルターを通して感じたこの世界のことを、表現していく。

それでいい。それこそが人生の目的だから。

あなたの表現に “間違い” なんてない。
誰がなんと言おうとも。

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過去のわたしは、誰かに何かを言われるのではないかと、他者の意見を気にして表現を抑えていました。(今も気を抜くとそちらに引っ張られがち .. )

わたしの考えなんて、取るに足らない何の役にもたたないものだ・・・と自分の中に押し込めて。

接する相手に合わせて、相手が求める“わたし”を演じたり、相手が求めているであろう言葉を伝えたりしてね。


だけど、今こうして、少しずつ “わたし” を外に出すようにしてみたら、まあ、伝えたいことやこだわり、表現したいことがたくさんあるのよ。

“わたし”から見えている世界は、“わたし”独自のもの。

そして、実際に“わたし”が感じているのだから、他者に「間違っている」と批判されるのはおかしな話なのですよね。


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とは言ってもね、ふとしたときに「 わたしの表現なんて、無意味だよなあ .. 」「 なんか馬鹿馬鹿しくなってきちゃった 」なんて思うことがあります。

そんなとき、何度でも読み返したいのが、本当に本当に大好きな、Sunaoさんのnote ♡

わたしたちはこれまで、自分を表現「しないこと」のほうをわりとすごい勢いで教えられてきました。

そして多くの人は、自分を抑えること、自分の気持ちや感覚にふたをすること、個を出さないことが当たり前となっている大人たちの中で日々を生きています。
でも、仮に誰にも「あなたは間違っている」と責められたり咎められたり、逆に誰かを傷つけたり迷惑をかける恐れがなかったとしたら、自分はどう感じていて何を言いたいのかを自分で知るのはとても大切なこと。
「こんなこと言ったら怒られちゃうかな…」と思ってしまうような表現こそ、その言葉を、その発信を待っている人が必ずいます。

そしてそんな秘められた言葉に共鳴する人たちとのご縁を大切にすればするほど、のびのびと優雅に楽しく生きられる楽園が広がっていくのです。

一部引用させていただきました。

読むたび、“やっぱりちゃんと、自分を表現して生きよっ!”って思える。

Sunaoさんがこの世界に表現してくれていることに、感謝しかありません .. 🙏

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最後に、「呪術廻戦」釘崎野薔薇ちゃんのセリフを残して終わりにしようと思います。(いつ見てもグッとくるワンシーンなのだ…!)

“完璧” も “理不尽” も、応える義務がどこにある。てめぇの人生は仕事かよ!
男がどうとか 女がどうとか知ったこっちゃねぇんだよ。てめえらだけで勝手にやってろ。

私はきれいにおしゃれしてる私が大好きだ。
⁡強くあろうとする私が大好きだ!

私は釘崎野薔薇なんだよ! 

表現することが無意味に感じたとき、このnoteが心をゆるめるきっかけになりますように^^

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