iQOSの発がん性は紙タバコのウン倍がなんだ

連日のように熱が引かない。昼間寝過ぎているせいで夜に眠れない、夜に寝ていないから昼間寝てしまう。悪循環だ。まずい、まずい、うつに戻ってしまう。と思い、今日は眠気を堪えて昼間起きてみることにした。やれる範囲内でのやることはたくさんあるのだが(たとえば洗濯を回すとか、変わり映えしない汚い部屋を片付けるとか)、合法の魔法のお薬を飲んでいないせいで全く手につかない。頭がぼうっとする。なんだかずっとまどろみの中にいるみたいだ。好きな曲の中ではこれはアドヘドと言われているので、かわいくてわたしも使ってみる。

あどへど

さらに今日は重い腰を上げて内科に行くので、予約時間まで起きていなければならない。正直言ってしんどい。もう全てを放り出して眠ってしまいたい。そして夜に起きてはまた眠れなくなり、さみしいーなどとあほくさいことを言うのだ。
眠気を覚ますためにYouTubeショートを見ていたら、何も悪いことはしていないのに「iQOSは紙タバコの発がん性の○×△倍です。吸うやつはバカ」と悪口を言われた。正確にいうとこれは悪口でもなんでもないのだが、社交不安障害特有の悲劇のヒロイン症候群(こういうのを何性というんだっけか。もうそれすらも忘れてしまったし、検索するのも億劫なので造語を書いている。こちらの伝えたい印象と受け取り手の印象の違いを生んでしまったら申し訳ないが、攻撃されていないのに攻撃されたと感じてしまうサガのことを指している)であるので、ツッコミは不要である。
そういうことで、イキイキとした反骨精神でiQOSを片手に、noteを書いているのである。前置きが長いなぁ。だからお前は成功しない。高卒。手帳持ち。バイトクビになりすぎ。金ない。
内科に言って、この原因不明の高熱の理由が判明して、そんな生活ともおさらばできればいいが、自律神経系で熱が出ることもあるそうなので、"そういう"病気持ちのわたしにとっては、その熱が厄介なものの副産物なのではないかという疑念が拭えない。まさにそれだった場合、わたしはまたも脳みそに振り回されるハメになるのである。いい加減にしてくれないか。わたしは、お前を誉めそやしてうまく調子づけている気持ちだったのだが、このメンヘラちゃんは違うらしい。ご飯を減らしたことに怒っているのかもしれないし、なんなら最近はバイト漬けで構ってあげていないのを怒られているかもしれない。しかしこの厄介さが今では少しかわいいと思っている。人間、少しの欠点があった方が親近感が湧くというものだ。わたしはあまりにも可愛い(?)上に勉強もできる(?)し、友達も多い(?)ので、これくらいの"かわいげ"があると良いのだ。(ちなみに完璧な人間を可愛げのないひとと呼ぶのは好きではない。それはその人がわたしなんかと比べものにならないくらい努力している結果であるので、そこんところ、わかってください)
しかしながらわたしというものは、昨日と同じく、音楽を聴きながら自分をみつめてこうやって文章を書いていると、感傷的な気分になる生き物なのだ。
大抵この時期になると聞くのが、星野と槇原である。他にはピノキオピーとか、ポップしなないでとか、パスピエとか、サカナクションとか、こんなところである。実を言うと、季節の気分で曲を選ぶよりも、新しく追加した順に曲を聞くので、正しくは最近聞いている曲である。星野源は紅白内定が出たそう。年末に聞く星野源ほどいいものはない。とくにこんな高熱にさらされていると、ストーブを聴きたくなるものだ。わたしが死んだら、こんなふうに愛する人たちが葬式をしてくれたら、と思う。優しい曲だ。いのちの車窓から2ももちろん買った。買ったが読んでいない、積読をしている。勘違いはしないでほしいが、積読というのは、本を読むのを後回しにしているのではなく、好きになるであろう本の山々で自分を囲んで、それを寝床から見渡して綺麗な景色に浸るためにしているのだ。断じて本を読むのがめんどくさくなっているわけではない。無印が良かったのだから2も当然良いだろう。
ピノキオピーは最近新しい曲を出した。僕なんかいなくても、という。こういう質感のピノキオピーの曲がすごく好きだ。世の中の世知辛さを突きつけてくるくせに、うるせぇ!いこう!という気持ちにしてくれる。ルフィのように海に出るほどのものではないが、それこそ地元の布団から社会に上京する一歩を踏み出せるような世界観だ。おすすめはブラックホールヶ丘商店街だよー(もうこないからねー)
こういうやさしい曲を聞くと、なんだか起き上がれる気がするのだ。単純だが、"それでも"という気持ちになるのだ。斜に構えて世間を見るくせに、世の中がよいものでありますようにと願う。自分なんて結局なんにもできないカスだと思うくせに、そんな自分にも何かできるかもしれない、誰かの心を動かすかもしれないと思っている。ニート気質である。周りの人たちが"年相応"に生きているのを見て、心が腐る思いがいつも頭の中にある。いつまでも学歴に取り憑かれて、まともに働けもせず、かといって生活をおだやかに送ることもできない。自分は自分なりに精一杯自分という海を泳いでいきのびているのだ、と言い聞かせる。そんな生活が、いつか身を結んで、普通に馴染めるようになりたい。自分を着飾ったり自虐キャラ付けしたりしなくても、胸を張って自分はこうだと言ってやりたい。誰のためにでもなく、自分のために。結局こういうところでわたしは自分を見捨てられないのだ。今まで誰に文句を言われても、認めてもらえなくても、誰かに愛されなくても、走り続けてきたのだ。そんな自分をまっすぐみつめて抱きしめてやりたいのだ。
そうなれるように、今はただ、必死にバタ足、いや犬かき、いやいや溺れている?をするしかないのだ。
いい時間になったので、病院に行こうと思う。暇つぶしをどうもありがとう。noteは偉大だ。


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