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「 どうか君と、君の愛する人が、世界のどこかで幸せでありますように。 」



夏休み、することも少なくて、意味もなく午後休をとって、結局寝てしまって、だらだら過ごして終わることが多い。
結局宿題に追われない以外は、学生の頃の夏休みとあまり変わらない。

そんな夏休みももう数えるほどになってきて、せっかくだからと買って読んでなかった本を読むことにした。
メルカリで安くなった文庫本を買うのが好きなのだが、担任をする前から夢だった「学級文庫をたくさん置く」というのが楽しくて、ついつい中学生が読んでも面白そうなものを探してしまう。
そうやって探していた時に自分も読みたくて読みそびれていた、『僕が愛したすべての君へ』『君を愛したひとりの僕へ』を見つけて買った。
読み終わって、『時をかける少女(原作の筒井康隆さんの方)』に入ってた短編に、同じような話があったことを思い出した。




※以下ネタバレあり


簡単にいうと、並行世界というパラレルワールドが存在していて、無意識のうちに一つ二つ移動することがあること。
一つ隣の世界では朝ごはんにパンを食べたかご飯を食べたかくらいの違いだが、その隣の世界はある選択を迫られた時に"選ばなかった方"であり、自分に"起こり得る可能性があった"世界。離れれば離れるほど生活や性格は変わってくる。それは果たして自分であるのか?

二つの話の主人公は同じだが、違う世界線の2人であり、題名がこの2人の違いをはっきりと表していると読んだ後に気付いた。
まず設定が面白い。「置いたはずのものが無くなった」「片付けたはずのものがない」などがこの理屈で片付けられて、一気に現実味が増す。
official髭男dismのPretenderの影響で"世界線"という言葉をよく使うようになったが、その「選べたらよかった」という「もっと違う設定で もっと違う関係で出会える世界線」が存在するという考えに引き込まれた。

それぞれの主人公はその世界線同士を移動する「パラレル・シフト」によって、それぞれの好きな人への愛を確かめようとする。
受け入れる方と受け入れられずにいる方。同一人物ではあるけど、どちらもあり得そう。

片方で結ばれた2人は、もう片方では結ばれずに終わる。
読み終わったあとに思った、わたしはどちらになるのだろう。
結ばれた世界線と結ばれない世界線、どちらにせよ作中では死ぬ間際まで共に過ごすことには代わりないが、きっと長くは一緒にいない世界線もあるはず。

どの分岐点でその差が生まれてしまうのだろうと考えて、怖くなった。
そんなことを考えながらもそろそろ自炊しなきゃと思い、重い腰を上げるのがしんどい時でもできる、親子丼を作ることにした。
親子丼はわたしが数少ないレシピを見ずに作れる(成功するかは置いといて)料理であり、同期から教えてもらったレシピをずっと使っている。
久しぶりだったので作りながら分量が合ってるか若干不安になりながらも、作ってもらっていた時のことを思い出して、わたしはきっと同期と一緒に暮らしても暮らさなくても、わたしに相手が誰であれ子どもができても、このレシピで親子丼を作るんだろうなとなんとなく思った。同期がそばにいなければ、これを作るたびに思い出すんだろうなとも。

これを見たあとだったということもあると思う。


それから、今日はTwitterをみていたら、悲しいニュースが入っていた。
詳しくみると、うつ病によるものではないかと言っている人がいた。
その女の子はTwitterやインスタでたまに流れて来て見る程度だったけど、推しの推しだったり推しが推されてたりで、よく追悼のメッセージがタイムラインやストーリーに表示された。

この土日も、彼氏彼女と遊んでるか、フェスに行ってるかのストーリーを見すぎて、無性に同期に会いたくなった。


一人暮らしももう2年目になると、1人で買い物にいったり、らーめんを食べたりも特に抵抗なくいけるけど、よく考えるとその度に同期に話している自分がいるから、1人じゃなかったのかもしれない。
かといって、自分が電話したいときにだけかけてきて、電話したいときにはかけても出ないし、寝れないとかいってもめんどくさがられる。
それでもたまに、今日なんかは当然店の名前だけ送られて来て、「いったの?」ときくと今度行こうねってことだったらしく、かわFだ……ととつぜんヤバTが出て来たりするときもある。


選択の連続の毎日だけど、「君の可能性ごと全部好きでいたい」と思ったということだけは忘れずに、もう少し、この関係を楽しめるようになりたいと思う。


今日の題名は、作中からお借りしました。

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