瞑想その3:心臓へのアプローチ

今回ご紹介します瞑想は、心臓への様々なアプローチを行うものです。

その名からも解ります様に、心臓とは人間の臓器の中でも、心と密接な関係を持った臓器です。

心の有り様を敏感に表現する臓器であり、驚けば激しく動悸し、悲しめば締め付ける様に痛み、嬉しかったり喜ばしい時には弾む様に高鳴る臓器です。

古来、人がその臓器を心臓と呼び、洋の東西を問わずそこに心があるのだと考えた事は無理からぬ事でしょう。

それ故に、瞑想を行う際にも利用しやすく、特別な効能を持った臓器であると古来より修行者達には認識され、様々な瞑想が開発されてきました。

そのうちのいくつかをご紹介致します。


◇その1:頭無し

最初にご紹介するのは、頭が無いと想起する瞑想です。

自分に頭が存在しないイメージを持ち、出来るだけそのままの状態で日常を過ごすのです。

すると、頭を失ったあなたは次の居場所として、自然と心臓へと移動します。

これは最初は「とても気味が悪く、奇妙」な感覚を感じるだろう、と和尚は言います。

それは何故かと言えば、現代人は今、発達した医学・科学による常識を下に「自分」が頭、つまり脳内にいると無意識に認識し、考えているからです。

高度な神経の集合体である脳が「自分」の発生源であり、そして存在する拠点であると、医学的な観点からの常識を子供の頃より学校などで教わったが故に、その様に自然に考えてしまい、常に意識の焦点が頭を基準にしてしまいがちなのです。

それを無いものと感じろと言うのですから、最初は気味が悪く感じて当然でしょう。

しかし、和尚曰く古来日本人は伝統的に、「腹で考えるものだ」と思っていました。

頭では無く腹で思い、腹が感情や生命力の湧き出る場所なのだと考えていたのです。

腹が立つ、腑に落ちる、腹がすわる、腹を割る、腹が黒い、腹の虫、腹に収める、へそで茶を沸かす・・・などなど、心と腹を関連付ける言葉が多いのも、日本人が腹を考える場所だと考えていたからに他なりません。

故に和尚は、日本的な心が穏やかで静かで落ち着いているのはこの思想があったからだと述べています。

こうした考えは中国やインドなどでも古くから思想としてあったものであり、「考える場所」では無いにせよ、古来中国ではへその下辺りに丹田と呼ばれるエネルギースポットがあるとされ、インドでは腹にまつわる瞑想や思想(腹式呼吸もその思想の一環)などが多くある事からも、昔の人がいかに腹を重視していたかが解ります。

(因みに心臓も中丹田と呼ばれ、腹は下丹田、眉間は上丹田と呼ばれます。

今回は中丹田である心臓ですが、腹や眉間を利用した瞑想法もありますので、それらもまたの機会にご紹介致します。)

心臓は位置的に、より生命の根源である腹に近い場所であり、そこに自分を置くと言う事は自らを頭から遠ざけ、煩雑な思考ノイズから距離を置くのに実に役立ちます。

あなたの思考が煩雑であったのは、あなたが頭にいたからなのです。

頭は思考を行う場所であり、思考する事こそがその機能です。

あなたは常にその頭にいて、常に頭をアイドリング状態にしていたからこそ、頭が不要な時にも働いてしまっていたのです。

ここは先人に倣い、自分の居場所を頭から心臓へ移してみましょう。

初めは「あたかも」頭が無いとしか思えないでしょうが、継続的に行って段々とイメージが感覚と結び付いてくるにつれ、それは実感として感じる事が出来る様になります。

勿論、実際に頭が無くなるわけではありませんが、あなたは最早自分が心臓にいると認識し、頭の存在を気にも留めなくなります。

その頃には、全ての身体的感覚が心臓に帰結し、また心臓から発生するかの様に感じるでしょう。

例えば体を動かしたりしても、その感覚は頭では無く心臓と結び付きます。

鏡で自分の目の深いところを見つめれば、それは頭からでは無く心臓から見ている様に感じます。

初めは感じなくともその様に意識して試せば、いずれはその様になります。

それは今までは頭の役割でしたが、実践が成就すればあなたの心臓がその役目を担う様になるのです。


和尚はこの瞑想のポイントとして、第一にその瞑想を試す事、第二に「愛に溢れている事」と言いました。

心臓は先にも述べたとおり感情と密接な臓器です。

そして、人間が認識出来る感情の内で最もポジティブで高い次元にあるものは他ならぬ「愛」や「慈悲」なのです。


本来、意識とはありとあらゆるものに同調する性質があります。

そして同調した対象をまず自分と認識し、その位置から外側を認識して観察します。

この働きをゲオルギー・グルジエフは「自己同一化」と呼びました。

そして、和尚はタントラと言う経典と催眠術を例に取って次の様に説明しました。

「催眠術者たちは想像によってそれを作り出していると思っている。タントラによれば、それは自分が作り出しているのではなく、すでに存在する何かに想像を通じて同調しているに過ぎない」

あなたが今まで同調していた「頭」から離れて、代わりに心臓と同調する事で、頭の機能である「思考」で焦り乱されなくなった意識は、心臓本来の姿である「平安と愛の源泉」としての機能と同調し、あなたと愛を結びつけます。

この方法に限らず瞑想全体において、愛は表裏一体と言って差し支えないほどに密接に関わってきます。

それが何故なのかはまた別の機会にお話しするとして、特に心臓へのアプローチを行う際には、意識的にも愛に溢れている事が共通のコツとなります。

愛は瞑想が正しく行われていれば、瞑想が深まると共に自然に湧いてくるものですが、人によってはいきなりの事で動揺し、混乱してしまうかも知れません。ですので予めそう言うものだと知っておいて自身の変容を円滑に許容する必要があり、且つ意識的に行う事によってより相乗効果が高まると言う訳です。


◇その2:両脇の間

和尚曰く、この方法は単純なものですが、その効果は奇跡的だと言います。


1:最初の方法はまず「楽である事」。

どんな姿勢でも良いのでとにかく楽な姿勢を取って下さい。

どんな理由があってもそれが自分にとって苦痛に繋がるならば、瞑想用のなにか特別な姿勢や坐法などであっても決して行わない事です。

ですので、座禅などを組む必要はありません。

楽であるならば椅子に座ったりあぐらをかいたり、ベッドに横たわっても構いません。

体が楽でくつろいでいる事が大切です。

次に、目を閉じて体の隅々までを感じ、体のどこかに緊張が無いかを隅々までチェックして下さい。

どこかに緊張があった場合、その緊張をとにかく意図的に強張らせ、これ以上は無理というところまで緊張させて下さい。

そして、これ以上は無理だと思うところまで緊張させたら、満を持して解き放ち、弛緩させて下さい。

なぜなら、筋肉を極度の緊張から極度の弛緩へ移行させれば、その部分に深い安らぎを生み出すからです。

顔面の筋肉には特に注意する様に和尚は促しています。

曰く「緊張は全て頭脳にあり、顔はその倉庫になるからだ」そうで、顔面の筋肉は身体の緊張の90%を占めると言います。

ですので、特に顔の筋肉には注意を払い、不安な顔、苦しみの顔、狂気じみた顔など、とにかくいろいろな表情を力一杯するようにしましょう。

恥ずかしがらずに、また行動が行動ですので誰かに見られない様に、部屋で一人でやるようにして下さい。

これを5分間続けると、体全体、四肢全体がくつろいでいくのが感じられるでしょう。


2:第二に、その様にして体の緊張をほぐしたら、あとはあまり拘らず、体の事は忘れる様にして下さい。

和尚曰く「体の事を覚えているのも一種の緊張」との事です。

1段階目は準備運動であり、それが終わればもう意識を研ぎ澄ます障害となる体の緊張はとことんほぐれている筈ですので、そこから先は体の事を含めて余計な物事は一切気にしないのが大切になります。

つまり最初から体に緊張が見当たらないならば、一段階目は飛ばして構わないとも言えます。

次に、目を閉じて両脇の間、つまり心臓を感じて下さい。

全面的な注意と気付きを心臓に向けましょう。

他の事は気にせずに、そこだけに意識を向けて下さい。

そして、胸の辺りが平安で満ちているのを感じる様にして下さい。

そこに平安が満ちているのだと想起して下さい。

先にも行った様に、心臓はそもそも「平安と愛の源泉」ですので、想像を通じてそこに同調する事で、その機能を引き出して享受する事が出来る様になります。

とてもシンプルですが、この瞑想が合う人には即座に大きな恩恵が得られる事でしょう。


◇その3:ハートに中心を定める

この瞑想には、ある種の才能が必要となります。

元からハートに根差している人、つまり先天的に心根が優しく、奪うよりも何かを与える事を喜びとする人に向いている瞑想です。

先に述べた「頭無し」の瞑想と部分的にはよく似ていますが、行程はより簡略であり、より深い効果が起こります。

この瞑想は「五感と心臓を繋げる」瞑想であり、何かに触れる時、何かを見た時、何かを聞いた時、何かを味わった時、何かを嗅いだ時、それらの感覚を心臓と直結する瞑想です。

初めから才能がある故に、頭の無い自分を想起すると言う行程を省き、より能動的に全ての感覚を心臓と直結するのです。

逆に言えばその才能の無い人は、頭無しという技法を以て素養を得、それから段階を踏んでいくとも言い換えられます。

この瞑想を行える人は行程を短縮出来るうえ、その才能の故に普通の人よりも大きな恩恵を受ける事が出来るでしょう。

そして、本格的にハートへと自らを浸透させていくと、それに伴って理性が停止していきます。

狂人になるという意味ではありません。

瞑想の本懐である真の静寂、聖なる沈黙、或いは無心、為無為、無我の境地、明鏡止水などと呼ばれる境地へ近付いている証として、理性の無駄働きが無用になる為にそれが起こるのです。

すると今度は自動的と言っても良いほどに、あなたは腹の方へと移動します。

ハートに根差した人を超え、腹に根差した人となるのです。

それは全くと言って良いほど簡単に起こるそうです。

腹は先にも述べた様に生命の根源ですので、その時にはより大きな恩恵が得られる事でしょう。

その時には、あなたの瞑想は最早技法を必要としないほどに軌道に乗っているはずです。

その感覚をより深めていくと同時に、常に共にあるように心掛けて下さい。


◇その4:アティシャのハート瞑想

これは和尚をして「もっともすばらしい方法のひとつ」と言わしめる瞑想です。

アティシャというチベットの人物によって考案されたもので、概要としては呼吸に合わせて次の様に行うものです。

まず息を吸う時に、この世のありとあらゆる人々の惨めさを吸い込んでいると思う事です。

過去、現在、未来に渡る全ての悲しみ、否定性、むごたらしさや地獄、ありとあらゆる「負(ネガティブ)」を吸い込んでいると思う事です。

そして、それらを胸に染み込ませます。

次に、息を吐く時に全ての至福、祝福、祈りや慈愛と言った「正(ポジティブ)」のありったけを共に吐き出すのです。

心臓は愛と平穏の源泉であり、変換器としても機能する場所です。

浄水場が下水道の汚水を浄水にして上水道に戻す様に、心臓は負を正にして世界に返します。

瞑想と言う技法があってこそ、世界は負のサイクルから抜け出せると言っても過言では無いでしょうが、その中でもこの技法は特に貢献するものと言えます。

現実の世界にはその様な事は起こらなくとも、実践した者には深い変容が起こるからです。

その時、その人には己を通して世界をも変容させる力が備わります。

先んじて実践し成果を得た者は自然と人を引き付け、より多くの迷い人を、己と同様に変容へと導いていくのです。

その変容の伝搬は、世界の有様さえ変えていく事でしょう。


◇その5:自分自身から始める

この技法は、その4と同じくアティシャによって提唱された、より心理療法的な側面を持った瞑想法です。

この技法では、今自分が感じている心の障害、あなたが普段目を逸らしている自分自身の心の傷と向き合う事を実践する技法です。

例えばあなたがヘビースモーカーであったり、アルコールに依存しているとしましょう。

或いはドラッグなどの違法薬物への依存症があるとしましょう。

なぜその様な事が起こるかと言えば、あなたが心の傷から逃避しているからに他なりません。

もしも酒やタバコが純粋に趣味であるのならば、あなたはそれをスッパリと止めて自制をする事が出来るはずです。

ドラッグとて治療を受ければ、二度とやろうとは思わない事も可能の筈です。

それなのに、治療後や止める決意をした後にも、再度それらへの依存が度を超してしまうのは、制御が出来ていない事の証左でもあります。

それは、肉体的に依存症と言う病気になってしまって止められないだけではなく、かつて何かで負ってしまった心の傷から逃げようとして、目先のまやかし・・・一時的に強い刺激などで、己の現実に対して目を逸らしているからに他なりません。

そうして逃避した分だけ、あなたは自分の本質からは遠ざかり、本当の自分ではない何かになってしまいます。

この瞑想は、その本来の自分自身の苦悩、苦痛と逃げずに向き合い、受け入れ、飲み込んで吸収し、消化すると言う、単純ですが覚悟と根気の要る技法です。

ですが、それが出来た暁には、あなたは本当の自分自身である事が出来るでしょう。

もうその時には、あなたを悩ませ、苦しませる過去の傷は、消えて無くなっているのです。


この瞑想はまず始めに、部屋に籠もり扉を閉め、自分が取りかかっていたもの全てを止める事から始めます。

テレビもラジオも本も音楽も、全てを自分から隔離、遮断して下さい。

和尚曰く、「それもまた微妙なドラッグだからだ」と言います。

沈黙して、完全に一人になりましょう。

また、可能な限りお茶もコーヒーも薬も飲んではいけません。

刺激物は摂取しない事です。

そして、何かに祈る様な真似をしてもいけません。

和尚曰く、「それもまた心にとってはドラッグだからだ」と言います。

とにかく、これからの瞑想以外に気を散らさない様な環境と心構えが必要です。

次に、己の苦痛と向き合います。

自分の苦悩や苦痛をあるがままにし、全面的な強烈さの中で体験しましょう。

原因が漠然としていて、自分が何に苦しんでいるのか解らないのなら、何も考えずに心の中から湧き起こる感覚を見つめて、心の中に己を苦しめていた苦痛が顔を出すのを待ちましょう。

剥き出しの強烈な苦痛を、そのまま体験するというのは、とても難しいものです。

胸が張り裂けそうになるでしょうし、子供の様に泣き出すかも知れません。

地面を転げ回るかも知れません。

それは苦痛と向き合う上で人間がする当然の反応ですから、そうする事を己に許しましょう。

問題は、そこで終わらせる訳ではない事です。

そうした苦痛、苦悩を体験したその時、その痛みの全てを吸収しましょう。

投げ捨ててはいけません。

これはとても貴重なエネルギーだと和尚は言います。

吸収し、飲み込み、受け入れ、歓迎し、感謝するのです。

拒絶してはいけません。

僅かでも拒絶する時にはこの瞑想は成立しないのです。

飲み込んだ苦痛を消化するには数日を要するかも知れません。

その間あなたは苦しみ続けるでしょうが、しかし消化出来た暁には、あなたは一足飛びに遙か遠くまで行く事が出来る、成長の扉を開ける事が出来ます。

和尚曰く「全くの拒絶無しに苦痛を受け入れる時、そのエネルギーの質はたちまちに変化する」のだと言います。

苦しみが喜びに変わると言う、その変容を信じる事が出来る人は少ないと思います。

しかし、その機能こそが心臓の本領である事を、この瞑想を行う者は実践の中で理解していく事でしょう。



◇最後に

これら心臓へのアプローチを行う中で、人によってはどこかの段階で、心臓に涼風が吹く様な感覚を覚えるかも知れません。

これは私が個人的に体験した事で、どこにも言及されたものではありませんが、この体験が持続する事によって、常日頃から非常に爽やかな感覚と共にある事が出来、また心臓に意識を定めるのが容易になるというメリットが生じます。

必ず全ての人が体験出来ると言う保証はありませんが、この様な現象が起きる場合は、その人は先天的にハートに根差した、特に才能のある人なのかも知れません。

もう10数年前の事ですので曖昧ですが、私の場合は和尚の本の目次を読み、ハートの瞑想の章を読んだ時に妙な感覚を覚え、実際にその瞑想のどれかの頁を数行読んだ時点で体が熱くなり、意識がとても明瞭になって、心臓に寒いとすら思えるほどの涼風が吹く様な感覚が生じて、かなり動揺した記憶があります。

以来、その涼風は今でも感じ続けています。

この様な体験は稀だと思いますが、もしも同じような体験をした場合はあなたの助けになる筈ですので、ギフトだと思ってあまり動揺しない様にしましょう。

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