貧しさ
鍋の中で肉が煮詰まるのを見ている。
最近の私はよくやっている。
器用貧乏という言葉は、半分腑に落ちる。どんなことでも人並み以上にこなせてしまう一方で、この人といえばこれ、といえるような特化した才能がない状態。いろんな番組に出てるけど親近感は湧かないタレント、みたいな。一方で、器用貧乏と呼ばれる人たちの「何者でもなさ」は何もしてこなかった人間の「何者でもなさ」とはやっぱり違うな、とも思う。器用さはその人の好奇心に裏付けされていて、ふとした瞬間にその好奇心が特別な魅力をもって浮かび上がってくる。
何もしてこなかった。
そう思って、四月に入ってから早起きしている。
早起きして、ベローチェで夕方まで勉強して、晩飯の材料を買って、ランドリーを回して、ご飯を作って、食べて、寝ている。四月に入るまでは最後の「寝ている」が生活と同義だったことから考えると、飛躍的にニンゲンの形に近づいているんじゃないか。
思うように短歌を作れなくなった、とある人に相談したら、最近のあなたは自分に自信がないせいで世界の解像度が下がっている、と指摘してくれた。確かに何かを作ることが楽しかったころは、自分から積極的に動いて人に会ったり、本を読んだり、旅行したりしていたように思う。
勉強の合間に3人までしか入れない喫煙スペースで休憩していたら、一緒にいたおじさんが出ていって、ひとりになる時間があった。その時、急にひとりで死ぬのが恐ろしくなって、後を追うように喫煙スペースを出て、きれいめの空気を肺いっぱいに吸い込んだ。私は何もしてこなかったけど、ひとりで死ぬのだけは勘弁してほしい。私がイカロスだったら、みんなに蝋の翼を得意げに見せて、ついに太陽を目指すことはなく、友だちが注文してくれた出前の寿司を好きなネタからつまんでいる最中に死にたい。
暮らしの楽しさを司る神様にもう一度振り向いてほしいから、四月は炊き込みご飯を作ったり、服をきれいにたたんだりしている。