夢の跡。
昨年末亡くなった祖父の法要が終わって、実家の仏間には日が差している。この三連休が明けたら高校の仕事も再開か、と思いを巡らす。
ここまで慌ただしい冬休みは初めてだった。勤務先の高校が冬休みに入って祖父は体調を崩して再入院し、そこから4日で亡くなった。再入院の時点で余命幾許だと覚悟はしていたけど、まさかここまで早いとは思わなかった。再入院してからは毎日お見舞いに行けたこと、最後の面会で自分がやっている企画ができると伝えられたことは本当によかった。
通夜と葬儀には、ボランティアで関わっていた方々が来てくださった。改めてすごい人が近くにいたんだ、と思わされた。祖父としてだけでなく、ボランティアセンターで「孫がな…」と自分のことを話してくれてたし、その界隈の大先輩としても自分のことを応援してくれていた。そういう人を喪ったことは、1人の家族を喪ったこと以上に大きい。
通夜の時に住職さんが「生前の故人の話していたことを…」とおっしゃっていたことは、自分へのメッセージなんじゃないかと思った。この2年間、ここから、とやりたかったことは何もできなかった。自分がそういうことをFacebookで書いたのを見たり、普段会って話す中で聞いていたのをどこかで話していたのかな、と思った。何かを成し遂げたかよりも、生き切ること。最近も「Do」より「Be」(「する」よりも「ある」)って見た気がする。
夜寝ててふと目が覚めると、最期の日を思い出しそうになる。病院からの急変の電話を受ける母を思い出す。こんなに早いのか、と信じられない気持ちだった夜中で、緊張して全く眠れなかった。しばらくは忘れられないと思う。
年が明けて、高校時代の友人に久しぶりに会った。昨年から小学校から転勤して中学校の社会の教員をしていて、仕事の話だったり、高校の時の話だったりに花を咲かせた。
話してる中で、「中学校の公民でクラウドファンディングが出てくるんだけど、前に石田がやってたのを紹介したよ」と教えてくれた。かつて自分がマーブルタウンを開催した時にやったのを生徒たちに紹介してくれたらしい。その友達は自分のやってることをFacebookだったり、このnoteだったりを見てくれているとのこと。どこかこそばゆい。
教員を目指している学生の子へのアドバイスを聞くと(実は学生の子に頼まれた)、「経験を積む」「見識を広げる」ことを挙げてくれたのだけど、そうしたことが学校で子どもたちと楽しんでいる姿を見せられるし、子どももついてくるのだそう。
思えば、今の自分は学校にいながらオンライン、オフライン問わずいろんなコミュニティに属してきた。そういうところで出会った人たちから影響を受けたり、一緒にプロジェクトをやったことによって感情を共有したり、そんな経験をしながら教壇に立てるのはある意味お得なのかもしれない(というか、積極的に選んでいるのだが)。
その同級生に限らず、大学時代の友達からも「どっぷり学校にいるよりも、その方が性に合ってるよね」と言われるようになった。ただ「自分はこうしていたい」というだけだったことが、いつしか他の人に印象付けるようなことになっていた。誰かのためにやっているというよりも、自分のやったことの結果が誰かの意味あることになればいい。
この冬、自分にとって大きな存在を失ったことは事実だ。人の一生の儚さを身に染みて感じた。かといって、自分がしてきたことについて何か変えよう、とは思わない。これまで通りのことをやっていきたいし、学ぶ続ける、挑戦し続ける、そういう在り方でいたい。それは自分の意味を探さなくてもよくて、結果として、誰かが喜んでくれればいい。
今年は「自分のあり方を貫く」、そんな一年になるといいなと思う。
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