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「行けるところまで行かない」選択

8月にマイソールから帰ってきて、ハムストリングを痛めて3ヶ月。
まだJānu śīrṣāsana Bが痛くて手をついてしまうし、Maricyāsana Dで床に坐骨が当たると痛いけど、ちょっとずつ伸びるようになってきた。

そうすると、「もっと行けるはず」と頑張ってしまうのが人の性。
その日はStanding, Prasārita Pādottānāsanaでぐいぐいと頭を押して入れていってしまったのです。
「ちょっと痛いけど、伸びてる感じがある」と謎の満足感と、以上に長い呼吸。
今思えば無理してストレッチしている状況で、決してまともなāsanaではなかったなと思う。

困ったのがUtthita Hasta Pādāṅguṣṭhāsana。
それでなくても足上がらなくて前傾する筋肉ないのに、バランスが取れない!
しかも左下腿前面まで痛い。
膝も伸びたらロックしてしまいそうで伸ばしづらい。
伸ばしすぎて痛みが出てる&うまく収縮ができなくなっている様子。
隣の方との間があるからいいようなものの、あっちへよろよろ、こっちへよろよろ…
本当申し訳ない…

Sittingに入ってからも、Vinyasaでのバックができない。
尻は上がるけど、足を後ろに持っていけない。
怖いし力が出ない。
ジャンプインもできない(これはもともとできてない)。
いつも痛いāsanaはこわばって逆に硬い。
Bakāsanaから足が伸びない。
ないない尽くし…

やっちゃったな~、とちょっと凹みつつ。

インタビュー集「Guruji」のDavid Swensonの記事を思い出す。

「痛みは警告のサインです。行き過ぎていると教えてくれているのです。アシュタンガヨガには八つの枝しかなく、その中には痛みや怪我はありません。怪我をしたり、体を痛めたりした人は、何か間違ったことをしたのです。練習の仕方を変えなければなりません。」

[Guruji: A Portrait of Sri K. Pattabhi Jois Through the Eyes of His Students]

行き過ぎていたね。
「行ける行ける!」と調子に乗っている時が一番危ない。

「行ける」と思っても「留まる」もしくは「戻る」強さが大事。
留まる、戻るということを行うには、自分への自信と信頼がないと難しいなと思う。
どこかで「もうできないかも」という不安があり、それを払拭するためについ頑張ってしまう。

体を壊してセカンド(もっとかも)していたが、プライマリーまで戻ってまたコツコツとpracticeしている方がいた。
粛々と日々mysoreを行っているように見えたが、ある時ぽつりと「もうできないかも、どうしようと考えちゃうことがある」とおっしゃった。
すごく衝撃的だった。

できない時は焦るし、何とかしてやろうという動きが現れるものだが、その方は全く感じさせなかったから。
それでも内面には感情の起伏があったのだ。
出さずに留まれるのは、今まで続けてきたpracticeへの無意識の信頼があってこそではないだろうか。

先へ先へと急いでいると、信頼を築く基礎が不安定なまま進んでしまう。
いざ障害が起こったとき、留まることができずに怪我の悪化やトラブルに対処できず心が折れて、ashtanga yogaを去ってしまうのではないだろうか。
Āsanaがいくら進んだかだけを追い求めてしまうようなpracticeでは本質が得られないと思う。

偉そうに言うが、自分はまともにprimary seriesもできないへっぽこです。
Maricyāsana D で手が組めるようになるのに2年かかったし、今も時々手がつるっと離れる。
1個新しいのもらったら、そこから最低半年、1年以上留まることが多い。
柔軟性はあるけど、筋力と運動神経が驚異的に不足している。
Ashtanga yogaを始めて、初めて腕立て伏せができるようになった。
しかも始めてから2年ぐらいしてやっと。
Caturaṅga Daṇḍāsanaは今でも胸が落ちていると指摘される。
そんな人がご高説を垂れてもねー、と思わんでもない。

しかし、ashtanga yogaに限らないのではないかと思う。

万事において前進だけに心を奪われることなく、留まることや立ち返ることを選んで土台を育むというのが、自信や強さに繋がるような気がする。
本当にその道に専心している人は、基礎もしっかりしていてなおかつトラブルシューティングもうまい。
そして懐も広い。

そんな人になりたいなと考えつつ、伸ばしすぎた自分を反省。

ちなみに、伸ばしすぎた弊害が日常生活にも出て、歩いていて足をついた瞬間に滑って膝が過伸展、踏ん張れなくて股が裂けるかと思った。
もうしません。

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