「言わせておく」修行
季節の変わり目だから、満月直後だからか、毎晩夢を見る。しかも起床時にいくつもエピソードを覚えている。2本立て。昔の映画みたい。しかも、楽しいものはほとんどなくて、心に残っているややトラウマのようなものをベースにしたものが多い。起きたら夢で良かったと思う反面、水底にあったものが浮き出てきて朝から気分が沈む。
今朝見た夢は以前の仕事環境のもの。
自分は仕事で何回か体調を崩した後、さらなる激務が予想される異動を指示された。断っても強制された後から動けなくなったために退職した。しばらく完全に休んだ後、今までと関係のないところに就職した。詳細は省くが、4月に入って人員が補充されなかったことで周りが知ったらしい。そこで以前の職場の人が言っていたのが、「あいつは我儘で登校拒否した」だった、らしい。(知人から聞いた)。
今でもあの頃のあの環境が自分にとっては不適切だったと再確認する。辞めるまでのやり取りを思い返しても理不尽と無理解があふれていた。しかし、当時の自分は長年働いてきた環境からドロップアウトして、生きる価値がなくなるぐらいの絶望だった。今でも彼らに会う事に対し体が拒否感を示す。どうしても彼らのいる会に出ないといけないことがあるが、会わないよう、見えないように気を遣って非常に疲弊する。
それでも当初よりは回復してきて鉢合わせる恐怖にビクビクすることも少し減ったし、何より週の半分実家に居るとまず会わないので気が楽になる。
そんな時に見た夢。
ある会場に後方のドアから入って後方の座席に座ると、ステージの一番前に座っていた以前の職場の古老の一人が「あの人は我儘でここを辞めたから、無視していいんです」と言って席から立たされた。座るところがなくて、何故だか会場を出ていくこともできなくて、混乱したまま立ち尽くしていた。
起きてからの全身の疲労感。まだこんなにも怖がっている。しかし、はたと気づいた。
先日、Talks & Essaysのある章を学んだ。まさに今はこれではないか。
ハードカバーは高い。
「人々をあるがままに受け入れることは利点がある。だれかがあなたについて何か言ったら、言わせておきなさい。」(P287、英語からの翻訳)
言われたことに心を乱される(=反応する)は、その人達から与えられた分しか自由でない。しかし、もしその過程を逆にすると、他人にありのままである自由を与えると、その分だけ私は自由になる。私の自由は、彼らに私について望むどんな意見でも持つ自由を与えることだ、たとえそれが間違っていても。(P287、英語からの翻訳 )
つまり、あの言葉に反応するということ自体、言われた人に自由を制限されているということ。実際、会いたくなくてびくびくしている。しかし、言いたい事を言わせることはこちらが相手に自由を与えている。自分の自由が断然変わってくる。彼らが何の為にそのようなことを言っているかはわからないが、もしかしたら彼らの安全のためかもしれない。悪く言わないと、そこから抜けた人間を肯定しなくてはならないからかもしれない。
他の人にコントロールの権限を渡さない。
反応=reactionは意識を伴った行動ではない。
思い出した瞬間に、今これがpracticeになるのだなと感じた。自分にとってはかなり重めのタスクである。しかし、あの時すぐではなく今だから指令がやってきたとすると、「暫く待ったしそろそろいけるよね」と優しさを感じないでもない。何よりこのpracticeをするならば、心身共に自由が広がる。コソコソビクビクしなくてもいい。その契機をもらうことができた。
そうは言ってもダメージは大きかったし実際にはそこまで簡単にできない。しかし、日常にpracticeを落とし込むことができるいい機会(と思うことにした)。「実践の場が来たな」と思考して、試そうとがんばることができる。習ったところがいきなりテストに出たようなものだ。めったにないことだ。ありがたいと感謝しよう。