危機だけど今つなぎたい「自然なお産」
自然なお産を未来に伝えていきたい。でも、そもそも「自然なお産」ってなんだ?「自然じゃないお産があるのか」と感じる人もいるだろう。「人間のすること。すべての出産は自然の延長だろう」「これだけ地方も含めて大部分が都市化した現在の日本で、自然なお産は可能なのか」とも。
そして、「自然」という言葉に傷つく人がいて、ある意味で炎上ワードにすら部類する…となかなか大ぴっらに語れない雰囲気がこれまであった。すごく大切だと思っているくせに、一人でこわごわ考え、他人になかなか共有せず、公に語ることを避けてきた。そうこうするうちに、自然なお産はあれよあれよという間に「危機的状況(もはや絶滅危惧種)」に陥り、一方でその流れに抗い、「絶やしてはいけない」と立ち上がる人たちが増えつつある。
プライベートでもとある未解決の不安を抱えたまま、アラフォーも半ばに差し掛かり、眠りの浅い日々を送る私は、昨晩も日をまたいだ頃、いつものように目が覚めてしまった。そこでふと思い出し、申し込んだまま放置していた、自然なお産に関する講座のアーカイブ録画を2本見た。すると、眠気が吹っ飛ぶほど、すごく大切な話題が詰まっていた。そうだ、これだ。妊娠・出産を超えて、私たちの社会が受容するべきヒントに富んでいた。
まだ十分に整理できておらず、自分の中でもうまくまとまらない。でもそこから感じたことから、「自然」のワードで引っかかることをいくつか拾っておく。旬なまま忘れないうちに。大切なことをずっと忘れないように。
自然とかけ離れていても逃れられない自然の影響
自然とは何をもって自然とするのか。これだけ交通網もオンライン環境も充実し、人は好きな時に好きな場所へ移動できるようになり、屋外へ移動しなくても物理的距離を超えて人はコミュニケーションをほぼ取れるようになってきた。「今の時代に自然なんてどこの話だ」と思うかもしれない。
でも、人間がどんなに技術を発展させて、暮らしが自然からかけ離れ、どんなに社会が高度化しても、地球という一つの器で生きる存在には変わりない。どんなに人工的な社会を構築しても、気象や自然災害の影響を完全には免れないし、人は季節や気候そのもの、そして自然の中で育った食べ物やコトバ、その中で暮らしてきた人たち(自分自身も)…ありとあらゆる、自然とつながるものやコトに影響を受けながら生きていく。
だから、人工的な社会を完全に否定するわけではなく、どんなに突き詰めていっても、やはり人は自然を超越することはままならない。そして、24時間、365日、地下シェルターにこもりきりならない限り、やっぱり自然とどう共存していくかが人にはますます大切になると考えるのが私の価値観だ。
「自然なお産」と自然じゃないお産
「自然なお産」というからには、自然じゃないお産があるのか。残念ながらそれがある。実際は日本の出産の99%は自然とはほぼ呼べないあれこれに影響されている。日本の大部分がそうなら、確かに炎上ワードへのなりやすさも想像に難くない。なぜ99%のお産は自然じゃない状況に直面するのか。
まず出産では、個人の価値観や暮らし、生理的な心身の状態など、個別の特性が大きく影響する。出産は人の身体がなすことだから、心理的にも物理的にも、個人の状況が多分に左右する。そしてその個別性の高い出産が「病院」という公の場に引き出される。本来は個々で必要なケア・サポートやお産の進行度合いも全く異なるのに、個人に専念できるお産は助産院(これも複数の妊婦がいれば半公にはなるが)か自宅のみ。多くの妊婦や医療スタッフが同時に同じ場に存在する病院は当然ながら明らかに「公の場」。どうしても個別の事情への対応には限界がある。組織が効率よく運営されること、個の追求よりも全体の最善の利益が優先されやすくなる。
これはお産にとっては非常にまずい。なぜなら、全体がスムーズに動くことが大事な医療現場にとっては、個人のお産が進まなくても、悠長に待てない。個人の価値観や暮らし方の微細な事情にいちいち構っていられない。個別性よりも標準化、平均化、効率化。大部分に当てはまりそうな適正解をどう見出し、当てはめるか。処置もどうしてもルーティンになりやすい。
今まで3人兄弟を自宅出産し、その後も妊娠・出産関係の話題をうろうろしていた私にとって、安産の最大の秘訣はリラックス、緩むことだと感じる。リラックス、緩むには、個別性が守られる安心が不可欠だ。オーダーメイドで自分に合った考えで、自分に合った対応の選択肢を可能な限り与えられ、自分のペースを乱されず、自分が自分でいることを肯定しやすいのが自宅や助産院での出産だ。当然、安心して、心身は緩み、安産になりやすい。
一方で、病院における人工的な医療介入は人を緊張させ、心身を硬くする。人工的な医療介入が増えれば、自然がそこへ追いつこうとあれこれ試しても、いくつもの引っ掛かりが生じて、スムーズに戻らない。自身の生理的なお産の進行や暮らし方・価値観を尊重されれば、心身は安心して緩み、人工的な医療介入が少なければ、産後の揺り戻しも自然がうまく事を運んでくれる。それぐらい自然による「デザイン」は、妊娠・出産においても秀逸だ。
「自然」のワードに傷つくのは誰か、なぜか
「自然なお産」というと、必ず傷つく人がいる。「私は自然じゃなかった」「自然がすべていいのか」「人は既に自然な存在じゃないのに」――。気持ちとしては理解できる。産科医療現場が抱えるさまざまな複雑な背景や状況から、お産の体験で傷つく女性は少なくない。一定数以上は確実に、毎年、ずっと何年も、何十年も、傷つく人たちが必ず存在する。
「自然」という言葉に傷つく出産体験があるのはなぜか。「自然分娩したかったのに、帝王切開になってしまった」「自然にしたかったけど、自分も納得いかないまま、巻き込まれてしまった」という、自己効力感のなさ、主体性を奪われた状況が、傷つく人を生む一因ではないだろうか。
すなわち、「自分が納得して選んだ、進んだ」という実感、産む女性が主体性を持てる環境が充実すれば、「自然なお産」のワードに傷つく人はもっと減らせる。そこがままならない。妊婦個人、あるいはその家族の利益よりも組織や専門家の意見が優先され、主体性を持てなかった産婦は「私は自然ではない」と否定された気持ちになる。でも産んだ女性たちだけが一方的に傷つく必要はない。なぜならその責任の大部分は、医療現場を支える組織・専門家の側にあるからだ。
「自然なお産」は誰が実現するのか
もちろん、妊娠前後から、妊娠・出産・子育てとはどういうもので、「どんな妊娠期間を過ごし、どんな出産・子育てができるのか・したいか」を考えるのは妊産婦自身だ。妊産婦が早くから自分事として考えられていれば、傷つく可能性も減らすことができる。ただ実際には、「そんなことを考えていいとすら知らなかった」という人がほとんどだ。
妊娠・出産は特に、子育てに比べても個別性が高い。それはいのちと性、時には生死が絡むテーマであり、家族以外の他人に語られることはほとんどない。だから、これから妊娠・出産を迎える人がロールモデルを知る機会も限られているし、テレビや映画などで描かれる妊娠・出産のほとんどは、それを見ても「自分事」として捉えるのは、同時進行の妊産婦当事者、もしくは直近で妊娠・出産を経験した本人だけ。
だから妊娠・出産を迎えれば、わからないことだらけだし、多くのテキストや雑誌には「主体性を持とう」なんて書いていない(書籍は探せばある。あくまでその内容を目的に探す、もしくは見つけられれば…だ)し、主体性を持つことを教えてくれる病院はよっぽど理解のあるごく限られた病院だけ。多くの病院は妊産婦に主体性を持たれたら困る。だってその個別性に対応する人的・経済的・時間的な余裕がないから。
病院では医師の指示が一方的になりやすく、医師の指示に従うのは当然だし、緊急性の有無にかかわらず十分な説明なく処置を受けることも少なくない。妊婦の真の本音はリラックスした雑談の中で出てくるものだけれど、その後に何十人も待つ数分間の診察で、リラックスした雑談をする余裕はない。自宅・助産院での出産を担う開業助産師は、健診にだいたい2時間前後かける。すると、その丁寧な個別対応を初めて体験した妊婦は驚く。「こんなに話を聞いてくれるなんて」「十分な時間をかけて不安を払拭できた」
話が少しずれたが、自然なお産を体現するのは、産む女性だ。そしてその女性と共に生きるパートナーや子ども、親も含めたその家族だ。でも当事者がそこへ至るには、本人たちの気づきを待つ以上に、周囲の支援者の働きかけがめちゃくちゃ大事だ。この支援者には産科医療現場の医師・助産師・看護師はもちろん、市役所の保健センターで母子手帳を渡す保健師、先輩ママパパ、両親に祖父母、つまり妊婦にかかわる地域のすべての人が含まれる。
はっきり言えば、妊娠してから主体性を持つことや自然なお産の重要性に気付いても、望む環境の整備が間に合わないことが今の日本ではほとんどで、望むオーダーメイドの妊娠・出産を経験できるのは1%にも満たない。
※直近で聞いた数値では、自宅・助産院での分娩は日本のおよそ0.6%程度。
妊娠してからでは間に合わない。親の入り口となる大切な妊娠・出産で、主体性を持てず、傷つく人が多くいる。この状況に危機感をもっと持ってほしい。この悲劇を少しでも改善するには、安心して妊娠・出産を迎えるための選択肢の一つとして、「自然なお産」を残すには、実現するには、「今の酷な環境を変える必要がある」とすべての人とは言わないまでも、できる限り多くの人が意識する必要がある。