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神様、と言われても。

1月11日、土曜、晴れ。カラカラの空気と青い空。ザッツ関東地方の冬。
今日の予定。特に決まったことは無し。夫が長めの出張から帰って来たので、遅めの朝ごはんを手作りのものにした。
昨日牛スネ肉を買ってきて、玉ねぎ、スパイスと煮てスープをとったので、そのスープで米を炊く。肉はカレー粉と炒めて、ご飯と一緒に。自己流ビーフカレー。最近、クミンだけじゃなく、油炒めの工程でシナモンを使うとすごく美味しいことに気づいたので、今回もそれで。

昨日のこと。
朝パート。ネパールから来ている男の子が、長崎に旅行して来た写真を見せてくれた。原爆のモニュメントと共に撮られた写真。戦争と原爆について、その場所に赴いて勉強して来たという。その子は、戦争の善と悪いかんについては何も私見を述べなかった。とても大人っぽいと思う。私は、日本の歴史のことを勉強してくれるのはとても嬉しいことだ、そういう気持ちを持っている人は将来いいリーダーになれるよ。とその子に伝えた。戦争は日本人にとっては忘れてはいけないことだね、とも。

外国からやって来た若い人との会話では、日本人同士だとぜったいに出てこない話題や、即座に答えるのは難しい話題がいきなり出てくる。

例えば前にはムスリムの子と宗教観のはなしになった。
日本の人は、なぜ神様を信じない?
という単純な質問が飛び出す。
私の家は祖父母までは信仰心の深いクリスチャンであったが、私はそこに加わっていないので、正直その質問に答えるのがほんとに難しい。
宗教はなくても道徳観を共有してるのはたしかなんだよなあ、と思うもうまく説明できない。

でもその時脳裏に浮かんだのは、毎日欠かさず来ていた常連のお客さんの事だった。欠かさずビール、3本。毎日、朝の時間帯だけでも2、3回現れることもあった。
きっと中毒になっていたのは明らかだった。例えば私がそこに何か心の引っ掛かりを感じた時、コンビニのレジ打ちのいち店員として、お客さんにお酒やめなよって話しかけるのはかなりものすごくハードルが高い。そういう話は聞いたことがないし、もしかしてそこに感情的な引っ掛かりをそもそも感じない日本人も多いのかもしれない。
レジ打ちにとってお客さんはお客さんだし、プライベートに立ち入ったとして、その問題の重さを受け入れるうつわもないのだ。

イスラム教にはお酒を飲まない、という決まりがある。
イスラム教とか、キリスト教とか、日本人の宗教観を説明するのは私には無理なので、決してそういう提示ではないんだけど、

少なくとも言えるのは、お酒やめなよ。と人に言いたい時、日本人なら自己判断、自己責任でそれを言う事になる。そうじゃなく口を出せるのは、福祉や保健衛生に関わる職業の人だけだ。
なんだけど、宗教を多数の人が共有してる世界では、
お酒は飲まない。と言うのは人の間で共有されているし、また人の意思を超えたところにある決まりだ。
先に書いたような、悩ましい。でも自分のところで受け入れきれない、みたいな感覚は、その宗教観では、神様が決めることとして、個を超えたところにあるんじゃないだろうか?個の苦しみではなく、それは人間の苦しみということだ。心が、開かれる。
何かを信じ、救済を得る、というのはそういうことなのかな??と、何にも属さない私は、主観的におもう。

もちろんそれだけで、宗教があった「ほうがいい」とは思わない。

私は、アルコール中毒のお客さんにマニュアル通り接客しながらいつも、これをムスリムの彼らに見せると言うのは、日本の取り繕わない現実を見せるという事だろうなあ、と、思っていた。
そして、ある時から、そのお客さんはぱったりと姿を見せなくなった。

そしてこれを書き終えておもうのは、
感受性が強いと言ってもさ、
世を動かす財力も影響力もない私が、それを言ってもしょうがないじゃんね。
ということです。
ひろゆきさんも配信で、無職が世を憂うっていうことくらい、意味のないことはない。って言ってたしね。

なんか書いていて、こんなに書くよりはもっと勉強がんばろって思いました。

ぐちゃぐちゃですいません。。。


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