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カオスな教室

公立小学校の教員をしていたころ。
教室にいてわかったことがある。

「『カオス』とは、ここのことだ(◎_◎)!!!」


「カオス=学校の教室」という、
愉快で、ちょっとおセンチで、感動的な図式が、私の頭の中にはある。




カオス=
①「無秩序で意味不明」
②「支離滅裂」
③「混沌とした状況」

それを教室として言い換えるなら、

教室=
①「秩序とかもはやそういう問題じゃない」
②「言ってることがなんだかもうよく分からない」
③「同じ空間の4、5箇所くらいで同時多発的に何かが勃発している」

という事だろう。


①「秩序とかもはやそういう問題じゃない」というのは、
「規則でしょ」「そうするもんでしょ」という大人の言葉に、心が追いつくわけないんだっていう状況下の心持ちのこと。

そもそも、本人が選んだり作ったわけではない、ある「枠」の中で「あるべき姿」を求められるときに小さく心の中で揺れ動く何か。
「謝ろうね?」って言われたとき、どうしたって口が開かなくって、
涙にしかならないぐちゃぐちゃの気持ちの上に落っこちてくる
「それじゃ分からないでしょ?」。

「もうね、先生。そういう問題じゃないとですよ」って言うしかないのよ。ってやつ。

②「言ってることがなんだかもうよく分からない」というのは、
子供たちが自分を守るためにつく小さなごまかしが、
状況説明しているうちに「ん??さっきはこう言ったよね???」って
先生サイドが突っ込まざるを得ないくらい、
本人がもう何がなんだかよくわかなくなってきてる状態。冷静なパニック。
たいていそうなってるときの本人の顔面は、
涙と鼻水が紅潮したほっぺの上で、ぐっちゃになっている。

人間は小さな嘘をいっぱいつく。
それは、ちょっと楽しい場合もあるし、必死な場合もある。
気づいてる場合もあれば、自分で気づいていない場合もある。
そして、他人にじゃなくて、自分についている場合もままある。

何か揉め事が起きている場合、
大抵は先生に状況説明しなくちゃならない流れになるのだけど、
そこで出てくる言葉っていうのは、

腹からストレートに出てくるものもあれば、
ちょっとずつゆっくりゆっくり出てくるものもある。
詰まって出て来ない場合もあるし、
腹から喉にくるまでにちょっと味付けされたものもあれば、
けっこうパンチを利かして形を変えているものもある。

もはや何が言いたいのか、
はたまた言った方がいいのか黙ってたほうがいいのか、
それすら分からなくなってることがある。

だってお母さんにバレたらやだもん。
先生に怒られるのが嫌だもん。
みんなに嫌われたくないんだもん。

外に出る自分の言葉と、
嫌われたくないという内側にある気持ちを、
ちゃんとうまいこと融合させたいと願う。

それがうまくいって、
「あー、だからかー、そういうことだったのね、
うん、わかったよ。それじゃしょうがなかったね」
と先生に言われ、自分の立場も安全に確保され、
満場一致ですべてが丸く収まることを望んでいる。

だけど、その手前に仕込んだ自分の言葉が、
不安と緊張と、込み上げてくる何かとでごちゃまぜになってしまう。

祈ることはただ一つ。
自分がみんなに裁かれませんように。
全ての人が許してくれますように。

私も小さい頃にそういう状況に置かれたときのことが、
うっすら記憶に残ってる。
安心しなよ。ホントは誰も君を裁けないんだからさ。


そして
③「同じ空間の4、5箇所くらいで同時多発的に何かが勃発している」
というのは、その文の通り。

机を向かい合わせに移動して
「班」を作ったりした授業なんかはわかりやすい。

一班で誰かが豪快に水をこぼしたと思ったら、
三班では喧嘩が始まり、
四班では誰かが怪我をし、
六班ではすでに一人が行方不明。

「何もないのは、二班と五班だけでしょ!!!!!!!」
と怒号の稲妻が教室に落ちて、
6班の行方不明者捜索のために二班と五班の優秀者勢が出動させられる。
そして出動した先で、誰かがすっ転んで保健室へ急行。

もう「何なんw」。でしかない。

こんなカオスな場所って、公立の小学校の教室ならではな気がする。

色んなキャラクターがいて、色んな関係がある。色んな温度と音がある。

教室中に見えない感情が詰まっていて、それらが動いて、交換しあって、
揺れて、浮いて、落ちて、浮かれて、はたまたクールで、不動で。

そんな教室は、
最高な強豪エンタテイナーたちのステージに思えて仕方ない。

しばしの人生の旅を挟んで、そろそろその教室が恋しくなってきた私。

早起きはちょっとなーと思いつつ、
次はどんなカオスを目撃できるのか、つい想像してしまう。

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