river is flowing
堀川。愛知県名古屋市を流れる運河。汚染が酷かったが清浄化の運動が広まり、今では観光地になった。
いくつも架かる橋の下を進む路線船。岸壁のカフェに停まって、堀川の流れを眺めながらラテを飲む。堀川の堤防には所々にヒカリゴケが生えていて淡い光が水面を照らしていた。川幅は十メートル未満。ヒカリゴケの灯りの上に、建ち並ぶ飲食店の影が映る。
私は、生まれ育った名古屋市熱田区に帰ってきていた。薄闇に揺れる堀川沿いは、懐かしいような、それでいて初めて来た場所のような気がした。ラ・マルゾッコで淹れたエスプレッソのラテが美味しい。また来ようと決めて停船所に向かった。二十八歳。二十八歳ねえ。二十八歳か。結婚して子供がいるような歳か。それとも仕事に没頭している歳か。それとも。みーみーみーみーみーみーみーみー。川の流れから小さい声がした。流れていく物体から聞こえる声を目で追った。
西日が沈む丘に広がる夕景。この景色は十年前に失われたはず。丘の向こうには、海が広がっている。ここからは見えない海の上に広がる空は眩しい。堀川に流されていた子猫は、傍で欠伸を噛み殺している。飛び込んで、子猫に辿り着いた。それからの記憶がない。スマートフォンを探したけれど見当たらなかった。バッグもない。
私は歩き出した。子猫を抱えて。あるはずもない実家に行くしかなかった。
十数分歩くと元実家が見えてきた。西陽は丘の向こうに消えて西の空だけを照らしている。実家があった場所にはなぜか実家が建っていて、玄関には鍵がかかっていなかった。
「ただいま」
薄暗い廊下を進む。ドアを開けると照明が灯ったリビングに出た。
「また猫みてゃあなもん連れてきて」
おばあちゃん。
おばあちゃんは猫が嫌いだもんね、ごめんね。おばあちゃんは後ろを向いて猫缶の中身を小さな皿に注いだ。子猫はごはんに夢中になっている。ここは照明が点いているのに薄暗い。リビングはまるでヒカリゴケの灯りに照らされているみたい。奥に置かれたテレビは光を映さない。壁にかかった時計には光が届いていなかった。奥は外に通じる窓。厚いカーテンが引かれている。もう雨戸を閉めたのだろうか。
「おばあちゃん、ひとり?」
おばあちゃんは笑っているのか真顔なのか分からない顔を向けた。
「当たりみゃあだがね」
「どうして」
おばあちゃんは何も言わない。嫌いなはずの猫を撫でている。私はリビングを出て自分の部屋に向かった。階段を登っているときに、おばあちゃんが「私の部屋によぉ――」と言うのが聞こえてきた。
階段を登りきった右手が私の部屋。左手がおばあちゃんの部屋。おばあちゃんの部屋のドアを開けて、カーテンがない窓から星空を見た。さそり座が南の空に横たわっている。振り向くと仏壇と、壁に架かる遺影。おばあちゃんの写真。少しだけ残る外の陽と、街の灯に照らされた部屋を出て、自分の部屋のドアを開けた。埃に塗れたペッツが並ぶ窓際と、セミダブルのベッド。私はベッドに潜り込む。薄明かりの天井や壁が消え、意識が朦朧としだした。子猫が階段を駆け上がる音が聞こえる。温かい塊が布団の中に入ってきた。