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空色


「空色がいちばんすき」


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 憧れの人と会った。

 そのすてきな彼は音が聞こえない。手話を練習して待ち合わせの場所に向かった。
「こんにちは」
 私の手話を見た彼は、笑顔を深めて「こんにちは」と口と手の指の動きで伝えてくださった。それから私の手は動かなかった。とても嬉しくてあがってしまったのと、あいさつくらいしかできない手話を使うのを躊躇ってしまって。


 娘に言わせれば、こんなにすごい機会は二度となく、一生で一度もない人がほとんど。という彼との待ち合わせ。

 数週間にわたって精神状態がよくなかった私はついに当日まで、彼のご家族に召し上がっていただこうと考えていたクッキーを用意できなかった。私はここ数ヶ月、精神障害者地域支援活動のクッキー作りに参加している。材料をまぜて生地を作り、焼き上げて包装したクッキーを、メンバーさんが役場で販売する。私はまだ売店まで行けない。今日は、地域支援活動でいちばん楽しみにしている英会話を欠席するので、皆さんにもクッキーを届けようと思っていた。来月は一度祖国に帰られる先生。八月まで会えない先生に渡す手紙も書けないまま、ただ待ち合わせの時間に行けるようにコンディションを整えた、というか昨夜がんばって禁酒しただけだけれど。なぜか彼に会わなければ、と思いつめてメールをしたくせに、会ってくださることが信じられずに、おかしなメールを送って迷惑もかけた。


 まずはベンチに並んで彼との筆談。

 私は読み書きができなくなったり、聞こえなくなることがある。一度読めず、数度書けなくなった。でも、彼の発声はとても美しかった。どれだけ努力されたのだろう。『幼い頃の発語練習はひどくつらかった』 以前ブログに書かれていたのを思い出して胸がつまった。

 梅雨の晴れ間。小さな遊園地で話していたのだけれど、少し居づらい。前夫と小学二年生だった娘と、ここにいた日を思い出す。この遊園地を指定したのは私なのに、勝手。距離はあるけれど移動を申し出ると、笑顔で承諾してくださった。数年ぶりの港に向かう。

 トイレに寄ったショッピングモールで。友人とのメールを終えた彼が書いた文字が読みづらかった。慌ててリーディンググラスをかけて拝読する。緊張で若年性老眼のことも忘れていた。今までは明るい空の下だったので文字がクリアに読めていたのだ。
 彼の友人から、おめでたの報告があったこと。だけれど「望まれてはいない」の文字に、目が釘づけになる。娘を宿したときと重なる。
 どういう顔をすればよいかわからないでいると、彼は「みんな生きてますよね」という文字を丸で囲んで微笑んだ。私は笑顔で同意した。


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 最後に彼は、あの向こうの丘にいるところを撮りたいと書いた。私一人で丘に登ること。撮影が終わったらこのままお別れしましょう、丘に着いたらメールして手を振ってください、と。

 港の向こうに見えていた丘は、意外に遠かった。待たせているのが申し訳なかった。広い丘でも私は迷子になった。離れた彼に見つけてもらうのが大変だった。やっと「見えました」というメールを受け取った。手を振るけれど、丘からは港にいる彼は見えない。しばらくそこにいた。高いところが苦手な私には少し怖い。最後まで挙動不審の私。このみっともない姿を、彼の望遠レンズは捉えているのだろうか。

 撮影をしていた彼から「終わりです!」とメールが届いた。丘のベンチにへたりこんだ私は「ありがとうございました!」と返信した。違う。見えないかもしれないけれど、手話でありがとうを伝えてお礼をしたかった。彼がどこにいるのか分からないけれど。

 緊張の糸がほぐれた私は座り込んだまま。
 やっと空が見えてきた。
 大好きな海の色も。
 彼は。これを見せてくれたんだ。


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 丘を下りて、歩いて帰る。港に咲き誇る花々が美しい。肋間神経痛で蹲りそうになる。遊園地が遠くに見えている。さっきまでいた港をなんとか撮影した。いきなり。彼の筆跡がよみがえる。

『みんな生きてますよね』

 私も生きてた。
 みっともなくて、誰にどう思われるか気にして日常生活に支障をきたして、それでも生きている。
 おこがましくも彼に会って、私なんかでも堂々と生きたいなどと思っていた。何かを克服したかった。彼もそんな私を応援してくれたに違いない。
 それ以前に。私は生きていた。生きているんだ。それだけでいい。それがいい。


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 ――私の青いネイルを見た彼が「青ですね」「青すきですか」とノートに書いた。うなずく。「ぼくもです」という彼にとても嬉しくなる。
 青系、とくに空の色がすきなんです。こんど『空色』という小説を書こうと思っているんです。
 そう伝えるのを躊躇っていると、「空色がいちばんすきです」と彼が書いた。私は笑顔で空の色の自分のバッグを指差した。
 彼は、すてきな笑顔を見せた。



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