ガネーシャの教えを思索する【其の9】
今回の教えは、「大事っちゃぁ大事だけど・・・でもなぁ…」って思う内容です。
「頑張る」って人によって基準が違いすぎるというか、曖昧というか、
よくわからないよねって思われませんか?
私なんて、頑張れる時もあるけど、頑張れない時もあるし、
乗ってる時もあれば、調子が出ないなと感じる時もありますし、
その時々で「頑張る」というのは随分違う感じがしています。
皆様にとって、どこからが頑張るで、どこまでは普通なんですかね?
【教え】
限界を感じた時、もう一踏ん張りする!
小学生の頃ですから随分と昔のことなのですが、
父親から言われた言葉を今でも覚えています。
『お前が苦しい時はみんなも苦しい。その時にどれだけ頑張れるかが勝負なんや』
父親は戦後の貧しい時代を逞しく生き抜いてきた世代なので、
基本的に競争社会を戦い抜く強い精神を持てと願っての発言だったと思います。
私は、それはそれで間違っているとは思っていません。
事実としてこの世の中は、資本主義という競争原理を採用していますからね。
ただ「限界」とか「頑張る」って、その人の感じ方次第のところがありませんか?
例えば衝撃的なくらいの差を感じるのは、オリンピックに出るような選手の
練習量と頑張る姿を知った時かな。とても同じ人間とは思えない。
もちろん最初からそうであったわけじゃなくて、小さな頑張りを継続してきた結果
として、偉大な頑張りに耐える力を獲得されたのだと思いますが、
あれを知ると、自分の頑張りなんて頑張っているうちに入らないなと思いました。
私は大学生や社会人の人材教育に携わっているのですが、学生に質問を向けると、
頑張った経験の個人差は、笑っちゃうほど違うんですよね。
でも本人としては頑張っていると思っているから、世の中が不公平に映る。
客観的な第3者としてみれば、ちゃんと「頑張りに相応しい状況」になっている
だけのように映るのですが、自分ごとにすると「自己認識」は怪しいものです。
そもそも「頑張る力」そのものも才能だなって思う時があって、
人は生まれながらに不公平だなと感じています。
だからこそ私的には、インクルージョンのない資本主義は、本来の姿ではない
と思っていて、大昔から自然界の仕組みも資本主義も、本来的には
『ダイバーシティ&インクルージョン』だと考えています。
話が飛躍したので原点に戻すと、ガネーシャが本当に言いたいことは、
「その人なりの挑戦が大切だよ」ってことなんじゃないですかね。
先程も書いた通り、オリンピック選手だって最初から鉄人だったわけじゃない。
小さな頑張りをコツコツと続けた結果、偉大な今があるということなんですよね。
だから、「限界を感じた時、もう一踏ん張りする」ってことは、
10回腕立て伏せをしたら、11回頑張ってみようよ!
そしたら「やればできる」「自分にもこんな可能性がある」って気づけるから。
「もう無理」って思った瞬間に「あと1回だけ」を繰り返して、
あなたの可能性が拡がっていくことを感じて欲しい!
そんな願いが込められた教えではないでしょうかね。
もしかしたら「頑張る理由」「あなたを支えてくれている理由」が
大切なのかもしれませんね?
大切な誰かのためだったら「あと1回」を頑張れる!
私のためだけなら諦めるかもしれないけど、思い描く理想のために諦めない。
私もまだまだ頑張りたいなと思います。
スーパーマンにはなれないかもしれないけど、「あと1回」を頑張り続ける!
大切な人たちの幸せが、私の幸せだと感じているので。
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