なんでもなく薄くて、とんでもなく濃かった
終電の中央線。たぶん夏。
「ねえさき、かわいい、うち泊まってきなよ」
たくさんお酒を飲むと「かわいい」しか言わなくなる先輩、この日も例外ではなかった。
「いや俺はこのまま帰るのよ、自分の布団で寝たいのよ」
と渋る友人も道連れに、そのまま先輩の家に雪崩れ込む。
彼女の部屋に上がるのははじめてだ。
シャワーを浴び、借りたTシャツを被って部屋に戻ると、友人がドライヤーでシャンプーのいい匂いを振り撒いていた。
先輩は煙草を咥えていて、私はそこで、彼女が喫煙者だったことを知る。
薄暗い部屋には、眩しいテレビ画面と、煙草の煙と、飲みかけの缶チューハイと、充電が切れそうな携帯と、内容もまったく思い出せないような会話があって、私は、先に眠った友人の隣で寝るのもなと思い、床の端の方で小さく横になった。
明け方、背中が痛くて起きた。友人はまだ寝ている。
ベッドの上に目を向けると、先輩が携帯をいじっていた。
「さきそこで寝てたの?」
「はい」
「えっかわいそう」
「背中が痛いです」
「あはは、そいつと一緒に寝たらよかったのに」
「いや寝ませんよ」
「気遣ったの?」
「親しき仲にも礼儀ありですよ」
「じゃあ、私のベッドに来ればよかったのに」
「先輩すやすや寝てたじゃないですか、ど真ん中で」
「あはは」
何故か、この会話だけは鮮明に覚えている。
外も明るくなってきたので友人を起こし、そろそろと空き缶を片付け、家を出ようとすると、先輩が酔い醒ましに、とつめたいカフェオレを持たせてくれた。
素っぴんで、浮腫んだ目をさらに細めて、ふたりで駅までのひたすらに真っ直ぐな道を歩いて帰った。
というだけの、まあ、至ってなんでもない日だったのだけれど。
そういうのって一瞬で過ぎて、どんどん薄く淡くなっていつかスッと忘れるんだろうなと思う。
私は煙草を吸わないし(匂いは好き)、人を勢いで家に上げる勇気などないし(片付けたい)、徒歩10分の自宅までタクシーを呼んだりはしない(歩くわ)。
だけど私は、彼女の、自分とは正反対のその潔さが眩しくて、ちょっと羨ましかった。
という話です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?