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中秋の名月に自分がコンテンツを作る意味を考える

Tomokiです.今日は中秋の名月で,満月の日と重なるのは8年ぶりだということで,せっかくなので焦点距離の足らないカメラなりに撮影をしてきた.もっと高解像度で,なんなら天体望遠鏡を使って撮影してる人も世の中にはいっぱいいるだろうけれど,なんとなく自分でも撮影してみたいという気持ちは大事な気がする.最近自分がやる意味について色々振り返ることがあったので今日はそんな話でも書いてみよう.

自分がやらなくてもコンテンツは無限にあるけれど

なぜ自分がやるのかという問いに立たされることは多い.たとえば自分が物語を書かなくたって,本屋や図書館には生涯を読書に費やしてでも読破できない量の小説がある.きっと名作と呼ばれる作品だけを並べたって一生の時間を費やしても足らないだろう.そんな中でもまだなお小説を書く人たちはいる.それは今僕がこうやってnoteを書いていることだってそうだ.

それでも文章をコンテンツとして書いて発信する人はやっぱり少数派なのかもしれない.やはり多くの人はブログを始めたりnoteを始めたりしようとしても「世の中に十分情報はあるし,自分が書いても意味もないし需要もない.」と一蹴してしまうことが多いと思う.

でも,確かにそれは真理だ.世の中にはきっと十分に情報があるし,自分が書くことに対して世の中に新しい価値が生まれるかというとなかなか難しい気がする.今僕が書いているこの文章だって,きっと世界のどこかで,何人もの人が同じようなことを書いているはずだ.

特に今の時代は物理的な距離も超えて,光の速度で情報が送られ,国境さえも関係なくなり,言語の壁だとほとんどないに等しい.その中で自分が何かコンテンツを作る意味について見出すのは無理もないことかもしれない.

先人の道を辿りながら前に進む生き物だ

そうは言っても何をするにも「他の人がやればいい」だとか,「自分以外にもやる人はたくさんいる」と思うこと自体に意味がない.なぜなら僕らは生まれてから,先人が歩いた道をずっと辿り続けているからだ.

生まれたときは誰しも0から物事を進める.生まれた瞬間から話すことさえできないし,まともに立つことも,移動することだってままならない.きっと僕らが他の人と同じようなことをする必要が本当になかったのなら,脳の神経細胞ネットワークだって両親から遺伝するように育っていたはずだ.何も知識を得ないで生まれ落ちた理由に意味があると思う.

「自分がやったところで価値がない」なんて幻想だ.僕らが何も持たずにこの世界に生まれ落ちて,ひとつひとつ先人から学んで,0から色々な能力を身につけることこそに価値があったんだ.それこそが本質で,同じようなことを繰り返すことを悪とした価値観こそが,人間が作り出した一観念にしか過ぎない.僕らは本質的に誰かがやったことを繰り返すように生きている.誰かがやっていることを真似て達成することに喜びを覚える生き物なんだ.もし自分がやりたいと思っていながら,他人の真似事だから,劣化コピーだから,自分より上手な人がいると思ってしまったとき,ふと自分が今までやってきた中で本当にオリジナルな要素はどの程度あるのか考えてみた.きっと数パーセントも人の真似っこじゃないものなんてないし,人の真似でしたわけじゃなくても,たまたま同じ発想を持った人がいることも少なくない.

99%は人の真似でいい

極端なことを言えば,自分がやることの大半なんて他人の真似事でも,劣化コピーでも構わないはずだ.そうやって真似事をしている中に,たまたま1ミリのオリジナルに勝手に入り込むものなんだ.

それはまるで他人と違う生き方をしようとしたわけでもないのに,1人1人全く違う顔や性格や価値観がある僕らのように,意識して作るものじゃないのかもしれない.自分がやりたいと思った事実にこそ意味があるんだ.そんなことを中秋の名月をファインダー越しに覗きながら,きっと誰もが撮っていて,きっと自分よりも素晴らしい写真が世の中にいっぱい発信されているのだろうと思いながらも,月夜にウキウキした気持ちでカメラを持って外を歩くことを清々しく思いながら,はっきりと映らない月に想いをこめてみた.




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