不安や心配事で何も手に付かないのは幸せになりたくない自分が居たからだった
Tomokiです.だんだんと雨の日が増えて梅雨の季節が近づいてきた.5月はあっという間に過ぎて後半に差しかかってきた.ついこの間まで新年度になって桜の季節になったと思っていたのに,梅雨が目前に迫ってくる時の速さだ.
日が飛ぶように進んでしまうのは,何かに熱中しているからだ.昔はこの感覚が怖ろしかった.何かに夢中になることは楽しいのだけれども,楽しいからこそ時間が過ぎ去ってしまった後に何か後悔をすることになるんじゃないかという漠然とした不安感で,文字通り色々と手に付かなくなることが多かった.その恐れは今も完全に消えたわけじゃないけれど,何も手に付かなかった時期からは大分落ち着いて,その時の自分の興味に身を任せるくらいには自分を信じてあげられるようになった気がするので今日はそんな話.
今が幸せじゃないのは幸せを感じることを恐れているから
好きなことは時間を忘れて楽しめるのは誰でも同じことだろう.それは僕にとってとても顕著だった.一日中絵を描き続ける日もあったし,一日中コードを書き続けることもよくあった.電子回路を作るために夢中でハンダづけして日が暮れるのも日常茶飯事だ.
それがある日から日常ではなくなった.端的に言えば暇ではなくなってしまった.限られた時間の中で何かを選ぼうと思った時に,何かに夢中になって時間を吹っ飛ばしてしまう感覚が,選ばなかった選択肢の方の未来と勘定してしまうようになって,選択肢の中から一つを決断することに強いストレスを感じるようになってしまったのだ.
さらに夢中になると優先順序を間違えることが多かった.自分が取り組むこと以外への視野が極端に狭まってしまうからだ.そのせいで,やるべき事が出来ていなくてミスをすることが多々あってから,僕の恐怖心は肥大化してしまうようになった.
そして,さらにそこには僕にかけられていた呪いもあったと思う.それは「価値ある仕事とは他人がやりたがなかったり,苦痛を伴って生まれた物だ.」という考え方だった.誰もやりたがらない,大変なことをするからこそ価値があるという考え方だ.この考え方のせいで僕は自分が楽しいと思うことをやることに罪の意識を持つようになってしまったのだと思う.
つまり,僕は僕が幸せを感じるような瞬間,それはたとえば自分の興味のあるコーディングだったり,好きな絵をひたすら描いているときだったり,3DCGを時間を忘れて作り続けている瞬間が,価値のないとても身勝手で非生産的で己が快楽に身を預ける大罪だと認識するようになってしまったのだ.
そうやって,大変なことや誰もがしたがらない辛いことを自分に鞭打ってやる内にきっと僕は実は心底疲れ果ててしまっていたのだろう.本当は好きだったはずの事でさえ,取り組む事が億劫になってしまう時期に長らく入ってしまった.
不幸や苦労の先に幸福があると信じた瞬間に,訪れることのない無限大の幸福を創造する
「若い時の苦労は買ってもせよ」という.そのせいか自分が楽しくやっている行為は遊びとして認識するようになった.実際,自分が頑張っている事を人に言っても「それは好きでやってる事だから遊びでしょ?」と言われていたこともあった.それから僕は自分が楽しんでやる事に大して知らず知らずのうちに罪の意識を持つようになってしまったのだと思う.
そうは言っても僕は自分が好きじゃないことをする人生を歩みたくなかったから,好きなプログラミングを苦労してやるようになった.もちろん当時はそういった論理があったわけではないけれど,自分の罪への贖罪の意識から,自分の身をわざと削ったり,自罰的な意味を込めるようになった気がする.言うなれば僕は好きな事でも自傷行為的に行うことで自分を罰しながら自分の世界を守ろうとしてきたのだ.
それは今まで積み重ねてきた苦労のおかげで幸せな未来を迎えることが出来るという幻想を抱いたからだと思う.実際,そんな幻想を抱いている人は多いのではないだろうか.そんな幻想のために僕はわざと睡眠時間を削って,毎日眠い目をこじ開けながら高鳴る心臓に耐え重たい身体を引きずりながら物作りをする時期があった.
幸福な人生を歩みたいと思うのは自然な発想だと思う.誰しも幸せで充実した一生を歩みたいはずだ.それなのに,なぜ今が不幸なのだろうか.なぜ今苦労しているのだろうか.その答えがきっと此処にある.きっと当時の僕は未来の幸せを創造するために今の不幸を自ら創り出していた.そして今この瞬間に幸福を感じることに恐怖していたんだ.それは逆説的に未来の幸福を削りとっていく感覚になったからだ.
しかし,当然ながら僕の身体はその苦労の毎日についていかなくなったし,もともと楽しいことしかできない自分は,自分が楽しいと思っていたことに苦労を持ち込んだ事で,トラウマをつくり,手が動かなくしてしまい,選択肢を選べなくなり,余計に罪悪感を募らせていく負のループへと陥ってしまった.
幸福になりたいと言いながら不幸を望む自分に気づいた
そうやって灰色の日々を過ごすようになってから,少しずつ昔の自分を思い出すようになった.幼少期の自分は世界が彩鮮やかだった.色々な事に興味を持ち,色々なことに手を動かして物を作ることに心からの悦びを感じていた.それが幼少期の僕の世界そのものだった.
その原動力は夢中だった.思い返してみればしばらく何にも夢中に取り組めなくなっている自分に気づいた.そしてその理由を探っていけば,それは幸福への恐怖だということに気づいた.
趣味に熱中して一生懸命に取り組むたびに,「もっと他にやるべき事があるんじゃないか」とか「そんな遊びばかりしているんじゃない」と怒られてきた自分は,どうやら自分が幸せを感じることに強い罪悪感を感じていることに気づいた.そして,夢中になっている自分にハッと気づくと,その手を止めてしまうことに気づいた.そして,自分がやりたくないと思っていることに手を向かわせようとして,しばらく立ち尽くす時間ばかりが増えていった.自分を不幸にしていたのは自分自身だったのだ.
不幸の渦中にいる自分が乗り越える苦労が創造する訪れることのない未来の幸福の拡大という幻想と,自己憐憫へと誘う甘美な誘惑によって,自ら望んで不幸を創り出すようになっていた.そうやって不幸になりたい自分にメリットがある幻想を強く抱いて,それを強く信じ切ってしまっていることに気づいた.
それは信仰だ.今の不幸が未来に幸福をもたらすという経典を,無自覚に,そして盲目的に受け入れてしまっていたのだ.そしていつまでも終わることない不幸と,いつまでも訪れることのない幸福を創り出す結果になったとき,自分が望んでいたものではないことに気づいた.
その信仰に浸かっていた自分は今が楽しければ良いと思う人たちをどこか蔑むような目で見てしまっていた気がする.「いつか足下が掬われるはずだ」とどこか呪うような目線で見てしまっていた.僕は僕に罪悪感を植え付けた思考を自分にインストールし,他人に罪悪感を植えようとしてしまっていたのだ.その自分に違和感と嫌気が挿した瞬間から,考え方を一新することにした.
未来の幸福を望む信仰を止めて,現在の幸福を信仰するようになった
もともと,僕が望んでいた世界は誰もが自分の好きなことで,好きな仕事で,心の底から楽しんでいる世界だ.そこに苦労や困難がないわけではないけれども,それでも誰かを想う愛が紡がれて,優しく包まれる世界を本当は望んでいた.
それは綺麗事だと言われてしまうかもしれない.幻想だと言われてしまうかもしれない.しかし,「今の不幸が未来の不幸を創る」ということもきっと幻想だ.同じ幻想なら愛のある夢を見た方がいいに決まっている.
もしかしたら,こんな”甘い”考えでは将来立ち行かなくなってしまうかもしれない.”今の幸福が将来の不幸を生み出して”しまうかもしれない.しかし,来るかもわからない将来の心配をしていても仕方がない.将来の幸福を望んで今の不幸を買い,挙句に明日交通事故で命を落としてしまうくらいならば,今日を幸福に生きた方が後悔がない.未来の価値は今の価値よりも遥かに低いのだ.
それならば僕は自分の好きで生きていこうと決めた.それは誰かに迷惑をかけてしまうことかもしれないが,同時に誰かへの糧になるかもしれない.取り組む物事に大して100%の愛を持ち,その先に関わる人たちへ100%の愛を持って接することをするようになった.それが僕の望む世界の在り方だからだ.自分の思考が自分の世界を創造するならば,自分がその創りたい世界の思考で生きていくことを決めた.きっと僕らの思考や想念には世界を創造する力があるはずだからだ.
一番に幸福を望むはずの自分一人を,終わらない不幸に陥れられるだけの現実創造の力があるならば,きっと僕一人を幸福にして,僕の周りの人間を幸福にできる世界を創造する力がきっと僕らにはある.だから,僕は正しい力の使い方として,自分の好きを全力で愛することを決めた.