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祈りが足りなかったなと思った話
ともきです。気がついたら9月も最終日。突然すっかり涼しくなって、厳しい夏の暑さはどこかに吹き飛んで行ってしまった。カーディガンが好きで長袖長ズボンで居るのが好きなので、過ごしやすくなって嬉しい。
ずっと自分と向き合うことってなんなのか色々考えてきた。そして自分の恐れとは何なのか紐解いてきた。そんな内なる探求が変化として現れたのか、外へと向かうことが増えてきた。色んなイベントに顔を出したり、人と会って対話をすることが増えた。そして、色んな人と話すことがこんなにも楽しくて、好きだった事を思い出した。
それがずっと恐れだった。好きだったからきっと怖かった。何気ない言葉で傷ついたしまうかもしれないし、傷つけてしまうかもしれない。そんな風に色々考えて何も喋れなくなってしまっていた。
自分に自信がなくて、どこか後ろめたい物を抱えていて、失望されたくなくて、でもどこかで必要とされたくて。まるで思春期のような想いをずっと抱えたまま大人になった。そんな葛藤を抱えてきたんだなと思った。
でも、多分多かれ少なかれ誰でも、何歳になっても抱えていて、上手く付き合ったり、上手く誤魔化したり、隠したり、中にはいつまでも目を逸らしたままでずっと生きる人だっているのだと思う。
そういう意味ではこうやって言語化して、こうやって恥ずかしげもなく明言できる僕は、きっと以前よりもずっと僕に向き合っているのだと思う。自分の所謂インナーチャイルドの声を聞いてあげられてるのだと思う。こうやって書いていると膝を抱えて怯えて愚図ってる幼い子供の自分が頭に浮かぶ。そんな幼い自分の頭を撫でて優しく声をかけてあげたくなる。必要だったのはこの瞬間なのかもしれない。
正しくあろうとしてきた。正しくない自分を正そうとしてきた。なぜならば、正しくあらねばならないからだ。正しく…正しさとは何だろう。
正しくあらねばと圧をかけるのも、その圧を嫌がって反発してるのも、実はどちらも僕だ。どちらも僕と向き合ってない僕だ。つまり自我だ。
絶望ってなんだろうと考えた。希望は絶望から生まれるのかと考えた。光があって闇があるように、希望は絶望があって生まれるのか。そんな修羅のような道はあまり信じたくないなと私情を挟みながら考えてみた。
そういえば絶望を「死に至る病」として自身の哲学を説いた哲学者キュルケゴールの本を読んだ。「自由の眩暈」が何だか僕の今を象徴してる良い言語化に思えて興味を持った。
難解な本だったので、誰かの解説から理解したので、本人の解釈ではないかもしれないけれど、結局彼は「絶望は神の前で自身を欠くこと」と結論づけた。今になってこの言葉がいかに絶妙で真理を説いているか感動する。
もちろん背景に宗教的な文化があるので、この言葉を理解したり受け入れるのは特定の宗教を信仰していない人には難しいかもしれない。僕も特にどの宗教に属していたりはしない。ただ漠然と神という存在を信じてはいる。神がいた方が美しい。
必要なのはそういった信仰だった。ただ神に預けることだ。絶望は神から目を背けることから生まれる。全てを自分でコントロールしようとすることから生まれる。
自我は自分で自分を攻撃するし、自分で自分に反発する。葛藤する。恐れを生み出す。正解や不正解を生み出すのも自我だ。自分を批評的に見てるのは自分自身でしかない。誰も僕を批判的に見ていたりはしない。そんな人が目の前に現れたとすれば、それは自分自身の投影でしかない。
僕にとって誰かは僕の鏡で、誰かにとって僕も鏡だ。こんなにも世界は上手くできていて、美しく成り立っている。僕の自我がけしかけた誰かに僕の自我は反発してる。自己弁護する。自分で自分を罰して自分で自分を弁護する。ずっと一人芝居している。
結局神から離れたところで、僕は僕を罰していたし、罪人として見ていたから、罪悪感と恐れを持ち続けていた。まさにキルケゴールの絶望の定義に当てはまって、思わず膝を叩いてしまう。こんな的確なことがあるのか。
僕に足りなかったのは自信を持つことだ。しかし、神様から離れたところで自信を持とうとしても、全てが空回りしてしまう。それはたとえばもっと勉強して圧倒的な知識を身につけようとか、理論武装しようとし始めたり、自分は常に正しいのだと嘯き始めたりする。自分自身から離れようとしているのだから、待っているのは苦しい現実だ。
生きている間に身につけられる知識には限りがあるし、知らないことがない人間も、間違うことがない人間も存在しないのに、さもそれが可能だと思っている。当然その先に待っているのは破綻でしかない。まさに絶望だ。
だからと言って自暴自棄になって開き直り始めるのもまた文字通り自分を捨てて自分から離れようとしているに過ぎない。僕は本当にこの両極端に逃れようとすることをしがちだ。意地になって死ぬ気で勉強したり作業したり、あるいは全てを無駄だと値踏みして全てを放り投げてしまったりする。
まるで無理なダイエットを始めて挫折したのと同じことを色んなところでしている。冷静になって客観的視点で見るとそんな自分はとても面白い。本当にいじけてる子供みたいな反応だ。
僕に必要だったのは祈りだ。神様の完全性を信じて、神様が導いてくれることを信じて、神様に預けることだ。僕が自分だけの力で出来ることなんて、ほんの些細なことだ。
正しくありたいと思うことも、それが正しいと思っていることも、そしてその正しさに従いたくない自分も全部肯定してやろう。神様に預けよう。完全であることに執心するわけでも、不完全に振り切るわけでもなく、常に中庸に生きよう。
きっとそれがキルケゴールのいう「神の前で自分自身であること」だと思うし、絶望に陥らないことなのだと思う。だから神様に僕が僕らしくあれることを祈るのだ。そして神様への抵抗を止めるんだ。そうすれば自分を傷つけることもないし、恐れることも起きはしない。なぜならば僕は全知全能の神様の導きの中で自分らしく生きられるように、神様が形作ってくれたからだ。
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