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結局日常に埋没しながら,自分の信じる道を孤独に突き進むという考えに原点回帰してきた
Tomokiです.11月は実験的に自分が不慣れだと思っていてやったことがない経験を敢えて多くやってきた1ヶ月だった.具体的には1人1人声をかけて誘って数人でテーマパークにいく企画を立てたり,メンバーをSNSで募って知り合いが勤める飲食店を予約したり,同じオンラインサロンに属していたという理由だけで,半年前メッセンジャー越しに挨拶だけ交わした人から1週間前に誘われたキャンプに飛び込んでみたりした.一方で毎朝友人に時間をもらって起きなきゃいけない状況にしてもらったりと小さな実験もある.結果的にはどれも楽しかったし,それと同じくらい反省したり落ち込むこともあったりはしたものの,行動できたことはよかった.そんな実験的な11月を過ごして,結局は原点回帰してきたので今日はそんな話.
祝祭的な日々を続けるとだんだん現実と解離していってしまう
そもそも祝祭が非日常を味わう催しだから当たり前だが,あまりに祝祭的な日々に浸ってしまうと,どんどん現実から解離していってしまう.ワクワクする気持ちや,自分の衝動や,興味などがだんだんわかってきた気にはなるのだが,それは現実とは結びついてきそうにないのに,気持ちだけ満足してしまう.何かわかった気がしてしまうのだ.そして,変わらない日常にまた埋没していく.きっと,今までもそうやって毎日を過ごしてきたのだろう.そうやって都度夢を見せるような魔法にかけられて,その魔法が解けかかった頃合いにまた,魔法をかけてもらいに来るのだ.それはまるでモルヒネ注射だ.痛みを和らげて,普段乗り越えられない大きな痛みを乗り越えるのに使い,自分の悪しき部分を治療するには非常に有用だが,一時の痛みを忘れるために常用すれば辞められなくなる.そして現実は悪化する一方だ.僕らが探しているのは夢見る遥か先の未来像ではなくて,そこへ繋がっていると信じるに足る茨の道なんだろう.
孤独から逃れようとした結果,孤独に突き進むことが重要だと気づいた.
僕が11月に行った祝祭は,自らの孤独を紛らわすような行為だったのかもしれない.人を誘えば近くにいてくれること,募れば集まってくれること,飛び込めば集団に馴染めることを確認したみたいだ.しかし,そうやって定期的に孤独感を紛らわすことは正しそうではないことに,なんとなく気づいている自分がいる.
自分が信じた道を突き進むことはやはり孤独への道を歩むことなんだろう.人とは違う道を歩み続けることを決心したあの日から,それは大袈裟に言えば僕に与えられた役割のような気さえするのだ.そして,僕が本心から望んでいる道なのだと思う.新しいものを創造したいと願ってしまったから,いつかそれが現実になるまで,僕は誰にも理解されないような道を突き進む必要があるのだと,思い知らされた.
この祝祭はきっと僕へ勇気を与えるきっかけだったのだ.どうしても孤独でいることに耐えられなくなって,息ができなくなってきたら,いつでも戻ることができるという確信を僕に与えてくれた出来事だったのかもしれない.だからこそ,僕はまた孤独の道を突き進むことができる気がする.
そして,きっと新しいものを生み出そうと日々試行錯誤しているアーティストやクリエイターは日々同じ想いをしながら毎日孤独と戦っているのだろう.僕たちは孤独かもしれないが,きっとその想いを分かち合うことはできる.だから,きっと本当に意味では孤独ではないのかもしれない.そう思えるからこそ,誰もいない静かな薄暗い部屋のなかで,一人机に向かいながら,自分が信じる新しい価値を創造できる気がする.
日常に埋没しながら,雲上の世界を目指して豆の木に水を与え続けよう
結局僕らが変えられるのは日々の日常をどうやって生きるかでしかないのだ.毎日何も変わらない日常に僅かでも変化をつけながら,いつ芽が出るかもわからない活動を信じて続けることが重要だということに僕は立ち返ってきた.いや,それは信じるなんてほどの前向きな言葉は適切ではないかもしれない.それは半ば諦めのような感情だ.芽が出なくても仕方がない.それは自分の生命に課せられた一種の業のように,自分が自分であるために,半ば諦めた心持ちで続けるのだ.毎日超えられない壁にぶつかって,自分の実力に絶望しながらも,足に括り付けられた枷のように,あるいは背中に括り付けられた十字架のように,背負い引きずりながらも過酷な山を超えていくことなんだ.
きっと自分と向き合うということは,自らが背負う十字架を,足の枷を,恐怖を乗り越えて認めるという行為だったのかもしれない.今苦難の果てに乗り越えたのがゴルゴダの丘でありますようにと願って,然うして3日後に聖櫃から復活できることを祈って,引き摺りながらも歩みを止めないことだったんだろう.
あるいは全てと引き換えに得た豆の木に水を毎日やり続けることだ.飢えそうな心を一時的に潤すために祝祭を利用するのではなく,祝祭によって痛覚が麻痺しているうちに自分の内側に潜って,いつ飢え死ぬかわからない恐怖と戦いながら,この豆が魔法の豆であるようにと土に撒いて水をやり続けることが重要だったんだ.
そして毎日水を与え続けた末に伸びた蔓を伝って雲上の世界へと向かっても,真っ先に待ち構えているのは今まで想像もしなかった恐怖の巨人だ.襲い来る恐怖に立ち向かって,呑まれないように心を奮い立たせながら手にしたものが,どうか金の卵を生むニワトリでありますようにと願うのだ.
結局のところ,信じることの連続なんだ.十字架を引き摺って山を超えても,飢えに耐えながら水をやり続けても,その先に待ち構えているのは今まで立ち向かったことのない恐怖の化身なんだ.しかし,その先にきっと自らが望んだものがあると信じているからこそ,立ち向かえる勇気が湧いてくるのだ.そのために僕は日常世界へと今一度埋没してみようと心に決めた.
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